原因

原因1
私も特定の事象があたかも「在る」かのように想定して「原因」という言葉をつい口にしてしまうけど、実際には現在現れている(と認識される)何らかの「事態」は、分割不可能なありとあらゆる「因」の総体によってもたらされる結果であるように思える。


原因1-2
総体の中の個々(分割不能なのだからこの表現は正確ではないが)のその因には、元来そこに是非があるわけではなく、無作為も作為も区別されることもなく、重大か重大でないかも関係なくいずれも単に「果」を引起す「因」と言うことでしかない。
環境や主体が意識しようとしまいと一挙手一投足、そして「静止」(何もしないこと)さえも全てひっくるめて「因」であり、何らかの認識単位で区切られるわけでもなく、時間的にも1秒と言わず0.001秒と言わずそれは「因」として作用し「果」として結実してしまう。


原因1-2-2
もし、科学的にその真実を因果の中から分析しようとするならば、科学が分割不可能な連続のような概念を数学の(例えば)微分積分で解析するように、何らかの手段を用いてその間にあるものを漏れなく拾い上げた総体にこそ真実があると見るのが妥当なのであろう。


原因2
このような極限化された総体としての「因」を持ち出して全てをそれをもって出来事の「原因」とすべきだなどとしたら、その非現実性に直面せざるを得ない。
なぜならば、人の抽象による認識能力の限界により分割不可能なものを語ること自体が不可能に思えるからだ。


原因2-2
原因について何かを語ろうとするならば、ここで人は何らかの恣意的な「切り取り」をしなければ「因」を論じうることも「行為」や「選択」そして「責任」を語ることもできない。
だから、そのような「切り取り」をしたうえで「原因」を扱うことが求められる事になるのだろう。


原因3
この「切り取り」は人の都合(限界)でそうしているだけのことで、「結果」はこの「切り取りによって抽出された「因」に従うのか,それとも先に述べた「認識不能で分割不可能な因」の総体に従うのかを問うたならばそれはやはり後者であろう。
「認識不能」にも拘わらずなぜそう予想するかと言えば、切り取りの仕方は細分化しようと思えば(それをどこかで止めない限り)無限に細分化が可能だからである。
その妥当性は再現性に見る事が出来,時間の経過の中で経験・記憶により確認され得ると思う。
それは「限界」の話であって、そこにもし「限界」が無ければ「結果」に対して「原因」は常に確定するはずなのだけれど、思惑とは裏腹に現実はそのようにはできていない。


原因4
「原因」と「結果」の関係においては「限界」により限定されることは避け難いことではあるが,人が抽出する「結果をもたらす原因」の分析は常に「不充分」であり(しかも、その不十分さは自覚可能)その分析によりもたらされる「予測」は常に不確実となることも避けられそうにはない。


原因4-2-1
もし、「結果」を抑止する為に「原因」「システム」を「探求」する事を目的とするならば、科学的な手法に習い極限を求めて細分化する事を前提としながら、その過程における現在可能なもっとも綿密で現実的な近似解を(確率としての)危険率をわきまえながら求める事が妥当だという事になるのだろう。


原因4-2-2
一方、ここで「責任」とその「帰属」を「決定」する事を目的(これもより原初的な目的を前提としているが)とするならば、そのために必要とされる「因」は上記とは違った、より恣意的で抽象的で価値依存的なものにならざるを得ないのではなかろうか。
そしてむしろそれ(より恣意的で抽象的で価値依存的であること)が「既に織り込み済み」で「なければならない」ようにすら思う。


同じ「因」でカテゴライズされる言葉でありながらこの目的の違う二つの文脈を同列で扱う事には不都合を感じる。

原因4-2-追記
前者(4-2-1)の『「結果」を抑止しようとする』ことにおいても、実際には抑止したいという「結果の評価」(是非)の内に「価値依存」が潜んでいて、それが「前提」となり「発端」として作用している。
ただし,後者(4-2-2)がそうであるのに対して「発端」以降の「探求過程」そのものは「価値依存」的とはいえないように思う。