読まされ,考えさせられる

内田先生が「創造的労働者の悲哀」というエントリーを書かれていた。
実は私も以前から内田先生のblogは読ませていただいているのだけれど、今回もいつものように「刺激的」な表現で何時の間にやら最後まで読まされてしまった。
はてなブックマークにはこれもいつものように賛否両論様々な書き込みがされている。
という事は、多くの人もまた知らず知らずに読まされ、考えさせられているということなのだろう。
その事だけでも,先生にとっては戦略的には「OK」なんだろうなぁ。


今回のエントリーで先生は

「働きたいけれど働く先がないのだ。これは個人の決断や趣味嗜好の問題ではなく、アンフェアな社会構造のもたらす問題である」というのがニート・フリーター問題における「政治的に正しい」回答である。
申し訳ないけれど、私はこの考え方の「働きたいけれど」という部分に実は留保を加えている。

という。


その理由を


働きたいのになかなか仕事に就けない若者は「自分に向いた仕事、自分の適性や能力を発揮できる、クリエイティブで、見栄えがよくて、できれば賃金の高い仕事で」働きたいという条件に呪縛されているからである。



とする。


今の若者に限らず,私の時代から既にその兆しはあったように思う。
これは、グローバル経済の「活力の源泉」そのものなんだろうなぁとも思う。
「若者」がそのような観念に呪縛されているとしたら、その価値観にどっぷり浸っているという意味で「社会を包み込む価値観」の問題ではあるけれど、同時に確かに個々の問題でもあるんだよなぁ。


そもそも、このような価値観は今より少し前の親世代がそのような「労働」(先生が言うところの「自分に向かない仕事、適性や能力を生かせない仕事、創造性のない仕事、見栄えの悪い仕事、賃金の安い仕事」)をしていて、その親世代がそこに「幸福感」を感じず、子供に「夢」を託していたと言うこともあるように思う。
子供もそんな親を見て「こりゃいかン」とか感じてしまうのだろう。


それに加え「ワーキングプア」や「格差」という現実が、そのような「労働」が「負け組」に繋がるという危機感をリアル感を伴って助長しているんだろうなぁ。


こうやって社会の価値観が醸成され、益々そのような価値観に拍車が掛かる。
「現実的には」と言いながら1パーセントを目指し、周囲もそれを一緒になって奨励し、その価値観の補強に寄与した後、結局は99パーセントに向き合わざるを得ないのだが、その価値観に囚われているからこそ、それさえも受け入れられず、そこでまたその価値観を補強する条件を整え「現実」を補強していく。
結果的には、小さく身近な「自己責任」で済んだ筈の物が、より大きく背負いきれない「自己責任」の需要をも呼び込んでしまう。
まさに、グローバル市場経済の仕組みそのもの。


ただ、普通(人並み)に生きる事が困難な社会は、きっと息苦しいんじゃないかなぁ。
普通の中にある様々な小さいけれど無尽蔵とも言える変化や切実さを無視する事も無いのに。
多様性って言うのも本当は「普通」の中に「普通」に感じられるときに意味があるんじゃないのかなぁ。