変化への欲望

「とにかく変えること」
「何が何でも変えること」
60が40になろうが、30になろうが、今60であることが変らないという閉塞感から、とにかく抜け出したいという欲望。
そこから動かないということへのフラストレーション。
それはもう「良くなるか」「悪くなるか」の問題ではなく、変わらないことこそが問題なのである。
「対案を出せ」と言う時の心象は「変える」事への欲求が「是非」を超越している。
「変えない」と言う選択肢は、「変える」という選択肢の前で、そのことだけで選択肢としての資格を失ってしまう。
その位置がどのようなものであろうと、変化を許容し、自由度の高い状態を望む、そんな欲求があるようだ。
変化がないことそのものが「不幸」であるとする観念。
これは、人の本質なのだろうか、それとも自由に付随する近代のイデオロギーの一つなのだろうか?
歴史を見ろというかもしれないが、歴史はそもそも変化しか抽出せず、その影に圧倒的に潜んでいる「変らなさ」は捨象されているはず。




私自身、安定した平和の中にありながら、戦争と言う悲惨の後の「何も無い状態」をうらやましいと思った事がある。
それまでのどうにも動かし難い「しがらみ」が一気に消え去り、誰もがゼロからスタートしなければならない状態を勝手に都合よく想像し、それにあこがれたりする。
その時代を苦難と共に経験された方にはとても理解し難く、甘ったるく、罰当たりな欲求に違いない。


そうかと思えば幼少時代に苦労を余儀なくされたと言う人を見ると、その強さに圧倒され,その苦難の環境に憧れを抱いたりもする。


ちょっと考えれば、私よりも恵まれた環境で幼少時代を過ごした人たちは幾らでもいるのだから、その意味からいえば私は憧れを抱かれる存在であってもいいはずである。
にも拘わらず、そんなことには一向に思いが及ばないのだから、たとえどんなにそれを切実に感じても、それは幻想に過ぎず、単に本人の考え方次第であることは間違いなかろう。


このような思いに駆られるのは人の本質ゆえなのであろうか,それとも何らかのイデオロギーに囚われているに過ぎないのだろうか?
もしや、これは単に私だけに現れた特異性かぁ?