理念とか現実とか

「理念」と言う言葉が出ると、それに対して「現実」という言葉が良くあてがわれる。
「理念」は恐らく何時においても、どこにおいても実現していない。
おそらく、実現していればそんな概念すら必要とされないだろう。
例えば「自由」とか「平等」とか「平和」といった世界の多くの人に共有されているであろう「理念」も実はどこにもそれを的確に満たすモデルのようなものは無い。


「自由」を求めながら不自由を招き、「平等」を願いながら不平等を生み、「平和」を望みながら争いを起こすというようなこともそこいらじゅうに転がっている。


また、「自由とはこうである」とか「平等とはこうである」とか「平和とはこうだある」とか言葉でその状態を現実に則して厳密に表わそうとして、あらゆる言葉を駆使してそれを定義しようとはするのだが、何かしらが抜け落ちてしまい万人の納得する「自由感」「平等感][平和感」を具体的には記述できない。
実はその状態が何であるかすらも明確には規定されていないように思う。


まして、その方法論ともなれば、それは千差万別。


だからと言って、規定されていないからその「状態」について何も共有されていないのかと言うとどうもそうではないのではないかとも思う。


別に不自由を求めて不自由を招くわけでも、不平等を願って不平等を生むわけでもなく、戦争を望んで戦争を起こすわけでもない。
不自由を招き,不平等を生み,戦争を起こせば「それは違う」とは多くの人が共通して思えることだろう。


ただ、「これだ」と表明した時点で、それは「これ」ではなくなる。
抽象して具体化してしまった時点で「それ」が「それ」で無くなる。
「理念」にはなにやらそんな現実に対して常に漠然としたところがある。


人がそれに対して行う現実的な営みは「こうではないか」「いや違うこうだろう」「いやいや本当はこうだろう」などと言いながら具体的な試行錯誤を繰り返し,その核心にけして到達することがないにも拘わらずその周辺を行ったり来たりウロウロするだけだ。
核心にいると思っても、そこは核心ではない事に気付かされたりする。
「現実」においてはけしてそこには達することは出来ないのが「理念」のような気がする。


おそらく「理念」に限らず、様々な「概念」自体がそんなものなんじゃなかろうか。
「概念」をそのものズバリとする「現実」というのは無いのではないかと思う。


しかし、この「理念」は言葉で説明がつかずとも、その概念を夫々が持ち続けそれを求めることにおいてのみ、その付近の領域に存在することや近づくことを可能にしているように思う。
むしろ、現実の世界ではっきり言い表せないことによってその求心力を維持できている。


無理に明確に規定することで逆にその核心から離れてしまうようなことが起こる現実の中で、漠然とした不明確さこそがそれを核心に引き戻す役割を果たしてくれているようにさえ思える。
一方で,明確に規定できないから意味が無いとして捨ててしまえば核心の付近をうろつくことも出来なくなる。


「理念」は具体的事実ではなく概念としての(共有)価値であって、実体の無い求心力のようなものなのではなかろうか。
明確でなく,漠然としているからこそ万人にとっての求心力として機能し続ける事ができるのではなかろうか?


昨今のように「現実的で無い」「明確でない」からと言ってそれを恣意的な抽象で具現化・固定化すればするほど思い願う核心からずれていってしまうのではないか・・・・そんなことを「漠然と」思う今日この頃。