私も実は「美しさ」が好き

私は国家の政策としての「美しい国」などはくだらないと思うが、人それぞれがそれぞれの「美しさ」を歪めることなく持ち続けること、それらを持ち続ける人々がそこにできうる限りそのままでいることができる環境を悪い環境だとは思わない。
環境を国といってもいいけど。
美しさに線引きをすること、たとえば厳しさを固定しそれを是とすることでも、やさしさを固定してそれを是とすることでもなく、厳しい美しさがあり、やさしい美しさがありそれが時を同じくして、あるいは時を違えてたち現れ影響を与え合う環境。
おそらく、そこでは[公共性]はそれぞれの美しさを最大公約数的に維持するためにとられる制約として働き、むしろ「美しくない」物となるかもしれない。
わたしは「公共性」そのものは元来美しくもなんとも無く(必要ではあるが)無機質なものだと思う。
そんなものを「美しい」ものとして評価しなさいといわれても「美しさ」という価値評価であるだけにそうは行かない。

ただ、それぞれの「美しさ」を最大限に維持できたという経験を積み上げることで信頼が築かれ、そこに[結果として]生まれる秩序や調和といった成果物を公共性と称して、それぞれの個々がそれを[美しい]と形容することはあるかもしれない。

政府にできることがあるとしたら、様々個々が持つ共有していないようで共有している「美しさ」を歪める[現実]という環境を少しずつでも変えていくこと、法やルールではなく、政治家個々(政府が生み出す政治的な産物には美しいものなどはおそらく無いだろう)がその生き様でそれを示すことぐらいではないだろうか?
私も人が人であるために「美しさ」は大事だと思う一人であるが、今のところ私の中では政府の「美しい国」政策はその「美しさ」を破壊するものだと観念されている。