発展のバロメーターそれとも衰退のバロメーター?

歴史を紐解けば、それまで支配していた価値観の転換期といったようなものはあるように思う。
現在の価値感上での「革新的なビジネス」などというのは現在の価値観の発展の兆し(発展の加速剤)なのか、それとも衰退の兆し(衰退への加速剤)なのか?
現在の金融優位な経済を基盤とした価値観の中で「革新的なビジネス」といわれるものは[人にとって」更なる発展を意味するのか、それともその価値観の時代の終焉を意味するのか?
現在を支配する価値観を基盤に見ていけば発展であることが、次代を支配する価値観の元では終焉であるといった大きな波というのはあるのだろうが私のような凡人にはそれが[何であるか]はもちろん見えない。
ちょっと過去に「小規模に支配していた領域」で起こった[バブルとその崩壊]のような小さな価値観の転換は身近に体験しているが、それを包含し、現在もなお日本を含め広い領域を支配しているグローバル市場経済のような価値観、日本人が[現実]と観念し、必死でしがみつこうとしている「環境」としてのこれら現在の価値観は益々ゆるぎないのか、いや、実はむしろ次代の価値観に移行するための転換点にひたすら向かっているのではないかという気もしている。


私たちは現在の価値観の中でしか物を見ることができないので価値観の転換を未来に見るのは困難で、[内容]を語ろうとしても語る属性も語る言葉も持たない。
しかし、たとえば近代には日本人が[現実]と観念しひたすら国家の存亡をかけて取り組んだ「帝国主義」「植民地主義」「軍拡」が転換点を迎えたことを、その時代を支配していた現実(切実さや経緯)ゆえに感知できずに、世界のメインストリームからはじき出された苦い過去に、その輪郭をぼんやり想像するネタはあるように思う。


価値観の転換期にそこにしがみついてその価値観の時代と共に消え行くものもあれば、新たな価値観を敏感に感知しそれを引き上げ生き延びるものもある。
その時代の価値観上で最大限の効果を生み出すために集約され統合されたシステムはそこでは足かせでしかなく、むしろこれら次代を担う価値観の芽は「多様性」の中に潜む、「現在は当たり前ではない無駄」に思われることの中にこそあるのだろうと思う。