ある日の公園の風景

この前、休日に近くの公園に行ったのだけれども、家族連れが結構いて遊んでいた。
微笑ましい風景と言いたいところなんだけれども,なんか島宇宙のようだった。
これだけ子供がいるのに、別の家族の子供同士はまるで別の世界で遊んでいるような感じで,家族の世界はあるのだけれども子供の世界が無い。
親の管理化の元、その限られた空間で遊んでいるような・・・見えない紐が親の元から子供たちに繋がっている見たいな・・・


そういえば平日も小学生ぐらいの子供はあまり見いないなぁ。


遊具も変った。
そんな風景を見ていると、つい、子供の頃を思い出す。
学校から帰ると、玄関を開け、家に上がることも無くランドセルをそこから家に放り投げて皆との約束の場に一目散に走っていった頃の事。
遊びで友達に怪我をさせたこともあったし,怪我をさせられたこともあった。
親と一緒に謝りに行き、親に頭を手で押さえつけられて頭を下げたりして・・・
遊び仲間には大人もいた,大人と言っても彼は精神障害者で外形はオヤジなのに精神的には子供と同じでいつもパジャマを着ていた。
”パジャママン”と呼ばれ、馬鹿にしているのだけれども良く遊んだ。
いや、良く遊んでもらった。
私は馬鹿にしながらも、子供のような彼が大好きだった。
今思えば彼は本当にやさしかった。
もう一人いつも怒っている子供っぽい精神障害のおばさんも居た。
彼女の場合はある範囲内(距離とかそういうことではなく)には近付かないようにしながらも、彼女も遊びのコミュニティーの大事なパーソナリティーで無視できる存在では無かった。
まあ、近くに精神病院があったからということもあるのだろうけど。
外見は良さげで好青年だが、なんか違和感があって避けた大人もいた。
本当はどうなのか分からないがそこは「子供の勘」で避けていた。
時には、ひげをボウボウに生やし、ボロボロになった八百屋の前掛けのような物だけを身につけてリヤカーを引っ張っている乞食のじいさんもそんな風景の中でインパクトがあった。
風景の中にあったこれらの「異」と微妙な関係を保ちながらもこの「異」とともにあった。
別にそれは対立ではないし、かといって同化でもなく、ただ普通に一緒に何らかの関係に「ある」。


そういうものが皆排除され、クリーンに整頓されてリスクは減ったのだろうけど。
なんか殺風景というか・・・