漠然とした不安

倫理規範というのは、身近な切実さや主観から見渡しても、そのスコープ内にその根拠を見出すのは難しい。
世界に私一人が生きているときに倫理規範が意識されるとも思えない。
他が意識されて初めて認識される概念だと思う。


「漠然とした不安」という言葉が頭に浮かぶ。


具体的な不安ならば(それが解決されるかどうかはともかく)原因は予想がつく。
目に見える因果、例えば
「具体的にこうしたからこうなった」
のようにそこにリアリティーがあり明らかであれば
「ああしなければこうならない」
として処理できる。


倫理規範が示すことには必ずしもリアリティーや明らかさがあるわけではない。
ごく身近な範囲で見るならばむしろこれに反する事も多々起きる。
「人を殺してはいけない」といってもそれは起こる事がある。
「盗んではいけない」といってもそれは起こる事がある。
それは身近な切実な問題として起こる。


現実主義者は「それは起こる物だ」と公言する。
それこそがリアリティーであり,明らかであり、事実だからだ。
それは身近さ、切実さを伴うがゆえに容易に受け入れられる。
そして、「殺す者は殺してしまえ」という。
「盗んだ者からは奪え」という。
リアリティーと明らかさを知らしめるのだと言う。
それこそが現実的な倫理規範を守る為の方策だと言う。
新たに「殺す理由」と「盗む理由」をそのスコープ内に生み出しながら「人を殺してはいけない」も「盗んではいけない」もますます不確かになる。
様々なスコープ内で生み出された不確かさが集まってスコープの外に広がっていく。


「漠然とした不安」はそんなところに現れるような気がする。


そもそも先人がその経験から生み出した倫理規範とはスコープ内で観念される「リアリティー」や「明らかさ」や「切実さ」により齎される不確かさに対する歯止めだったのではないかと良く思う。
それはそこに「リアリティー」や「明らかさ」や「切実さ」を伴っていないからこそそれを感じる。
今よりもさらに争いや理不尽に晒されていたはずの先人がそれを知らなかったわけは無い。
先人は「リアリティー」や「明らかさ」や「切実さ」に左右される人の性質を大昔に既に経験済みでお見通しだったに違いない。


様々な宗教を生み出した賢人は本当は何を信じろといったのだろう。
何に惑わされるなと言ったのだろう。
今の宗教の対立もまた、それを伝える過程で、その教えを「リアリティー」や「明らかさ」や「切実さ」で歪めてしまった結果なのではなかろうか。