切実さの操作

「切実さ」は人の「関心」や「行為」(動機)を大きく左右すると思う。
このことは「関心」をコントロールしたければ「切実さ」を喚起する事が実に有効な手段であるという事を意味すると思う。
世の中には多くの概念のレイヤーが錯綜し、個々夫々がそれら多くのレイヤーを観念し、その軽重をはかりながら内在化させているのだと思う。
そんな中で、誰かが他を巻き込んで(良くも悪くも)何事かを成そうとする事を望んだ時,彼は自らが重視するレイヤーに「他者」の関心を向けることを考えるだろう。
誰かが「関心」をコントロールしたいと思う時、「切実さ」は容易に利用されてしまいがちだ。
「事実」では動かなくとも「切実さ」には容易に動かされる。

そうでない人が薬物中毒の人を見て、なぜ破滅が分かっていながら、進んで自らをそこに仕向けるのかは実に不可解だが,薬物中毒の人がそれでもそこに向かう心情は実に「切実」なはずだ。
そこにいざなおうとする者がその気になれば、「切実」に耐性のない者に「小さな切実」の罠をかけることは容易な事だろう。
「小さな切実」を「小さな魅力」を用意して喚起すればいい。
あとは「小さな切実」よりも「少しばかり大きな切実」を用意し、次から次へと「切実」をあてがえばもうその「切実さ」が自らを縛りそこから逃れる事はもうできない。

恐怖、快感、欲など人が持つ(野性的)感覚は特に「切実」に直結していると思う。
そのリアリティー(現実感)が「切実さ」を無視できなくさせる。

切実さは利用されやすく、他にコントロールされやすく,そして,時にコントロールしようとする者の想定を超えて「切実」が「切実」を呼び,思いもかけぬ事態を引き起こしたりする。

「切実さ」への「耐性」はやはり大事だと思う。
これは「切実」がいかに人にとって「抗し難いか」そして、同時にそれが「大事」であるが故に抗し難いのだということを正しく知ることから始まるようにも思う。