小泉さんと小泉的なもの

内閣総理大臣安倍氏に移り、小泉政権が終った。

評価は歴史が決める。
確かにそうだ。
と同時に歴史は戻らない。
既に積み上げた事実は変ることなく、その積み上げた事実の前提の上に新たな歴史が積み上げられる。
歴史が下す評価はあくまで積み上げられた世界が持つであろう概念が下す評価であり、またそれ以外ではありえない。
起こらなかった「可能性」は歴史にその居場所はない。
そして、その「積み上げられた世界」で下される「歴史の評価」に「正しさ」があるわけでも「間違い」があるわけでもく、未来の人々がそこに開かれた概念世界を拠り所にして「負」であるか「正」であるかが感知されることになるのであろう。
歴史は彼を評価するだろう。
が、時代と共に、あるときは良く,あるときは悪く、いかようにも評価するだろう。


小泉政権が終っても、在任中に残した小泉的なものは、今も、これからも生きつづけていく。
小泉さんは自らを非情だと言い,必要な非情だと観念しているようだが私は基本的に彼は情の人、感覚の人、切実の人だと思う。
情け深いという意味ではない。(その意味では確かに非情だ)
彼自身の個の中にある「切実」に忠実な人だという意味。
少なくとも「理」の人ではない。
彼自身の「情」を前提とした「理」を頭に描き、「その理」を遂行するために「非情」であると言い聞かせながら行動した人だと思う。

人々の中にあるそれぞれの「切実」を喚起し「理」を無意味化した人。
「切実」の持つ危険性を麻痺させた人。
夫々の「切実」が夫々に先鋭化した刹那的社会が残され、それが受け継がれていく。
政策は変ろうとも「小泉的なもの」は受け継がれていく。

自分でもまだ上手く言葉にできないが、そんな気がする。