感覚遊び3

感覚遊び」「感覚遊び2」の続きです。


人にとって「感覚」は「切実」である。
「痛い」と思えば、その瞬間は誰がなんと言おうと「痛い」
「嬉しい」と思えば、その瞬間は誰がなんと言おうと「嬉しい」
「怖い」と思えば、やはりその瞬間は誰がなんと言おうと「怖い」のである。
と同時にその経験により培われた「価値観」もまた「切実」である。


そして、その「切実さ」は環境,経過の違いにより現れ方が違う。
同じ「事実」に対して「ある環境(や経過)」で「ある系」において「切実さ」を強く感じても、その同じ「事実」に対してある環境(や経過)ではその「強度」はたいした事ではなかったりする。


これは、主観の中にさえ「感覚」の違った「切実さ」が同時に潜んでいる事を現実味と共に確認する事もできる。(その事を確認すれば、いかに切実さをともなう感覚が「ある事実」を自明であるかのように「私」に感じさせても 「他」においては自明でない「大いなる可能性」を受け入れざるをえない事にもなろう。)


自然科学的な客観的事実に軸足を置けば、事実と違うこの「感覚」「価値観」は「錯覚」である。
客観的事実の地平(レイヤー)では、多様性もまた、その「錯覚」の上に成り立つ事になるのかもしれない。
でも、それを「錯覚」と認識しても、その事で感覚のリアリティーが失われるという事ではない。



どのような状況下でも「幸せ」を感じたり、どのような状況下でも「不幸」を感じたりする不思議な人の性質が存在する可能性はこんなところに開かれるのではないかとも思う。
また、同じ事実の中に様々な「価値観」を見出す可能性、つまり「多様性」もこの領域に生まれるのだと思う。


感覚は切実であり、価値観も切実であり、客観的事実が示すものに対する正しさを認識したとしても尚、それが無視できない「切実さ」であることは変わらず、そこに人間「らしさ」が有る。



しかし、「感覚遊び」で書いた例のように同じ主観の中でさえ同じ事実に対して違う「感覚」「評価」を許してしまう程に環境依存的であり普遍性が無い。
「切実」でありながら「普遍性」は無い。
今のこの「切実」は、1秒後には「切実」でなくとも全くおかしくない。


この「切実」がその「切実さ」ゆえに「普遍的」であるわけでも「真理」であるわけでもない。
ただただ、それぞれで「切実」なのであり、同じ瞬間,同じ主観の中でさえ「整合性」があるわけでもなく、同じ主観、違う時間・環境で「整合的」であるわけでもなく、自他においてもそれぞれに「切実」であるだけで、それぞれが「整合的」である事とも直接的にはなんら関係が無い。


この「切実」を、あたかも普遍的な前提かのように扱い、それ「以降」を論理で排他的・整合的に語られる時に「極端」が顔を出すのではなかろうか。


逆に、「普遍性」では語ることの出来ない「切実」をあたかも無いものかのように無視するときに人間性が失われるのではなかろうか。