感覚遊び2



だからなんだという事でも、検証に耐える考察ということでもなく、ひょっとしたらあたりまえのことかもしれないが、ちょっと前の「感覚遊び」というエントリーから少し連想した事柄のメモ。


(連想1)
私という主観が、同じ事実を、同時に違うものとして感じ、それを同時に確認できる。
としたら
人は「感覚が環境に左右されうる事」を感知可能であり、それを直接確認することでそれを確証することもできるのではなかろうか?
視覚や,聴覚でも同じようなことは起こることを考えれば,これらもまた同様に確証することができそうな気もする。
さらに、これら「五感」はあらゆる「情報」の入り口であるということを考慮すると、(後天的な)「物事の捉え方」自体もまた(過去もそうだが)今現在の環境に左右されうることをかなりの確証を持って観念することもできると言う事に成りはしないだろうか。


しかも、それは自と(不可知な)他との関係にそれを見出そうと試みるまでも無く、時間のなかで連続的に体験した感覚を(曖昧な)記憶を頼りに比較することも無く、たった今、自(主観)の中に既に内在している性質として強い確証と実感をもって観念することができるということなのではないだろうか?


もちろんこのような感覚は現在に至るまでの経験(体・脳の記憶)がそうさせているのではあるが、「今」を切り取り、その切り取った時点でこれら二つを同時に比較して観念できるという点に興味がある。


(連想2)
(主観においては)冷たい水に晒され続けた右手にとって「ぬるま湯」の「暖かさ」に感じる心地よさは「切実」であり、と同時に熱い湯に晒され続けた左手にとってそれと同じ「ぬるま湯」の「冷たさ」に感じる心地よさもまた「切実」であろう。


それに対して突きつける「温度計の指標」(合意の上で切り取られた属性の強度により暖かさや冷たさを計る客観的事実)は何を意味するだろうか?
ここで客観的事実により突きつけられるのは
心地よい暖かさを与えてくれる「ぬるま湯」 も 心地よい冷たさを与えてくれる「ぬるま湯」 も 
暖かさや冷たさにおいては「本当は」変らない。
ということ。
「切実」である「違いの感覚」に対して「変らない」を突きつける。


人の生き方を左右する「情緒」(幸/不幸・快/不快・好き嫌い等)は、まさに「切実である違いの感覚」に拠る所が大きいにも拘わらず、それに対して「事実」は理不尽にも「変らない」を突きつけてくるのである。


もしここで右手を入れる「ぬるま湯」が左手を入れる「ぬるま湯」よりもほんの少しばかり温度が低いという状況(こうしても感覚上の暖かさ,冷たさは大きく影響を受けることは無いだろう)を設定すればさらに理不尽さは明らかになり


右手に心地よい暖かさを与る「ぬるま湯」は左手に心地よい冷たさを与える「ぬるま湯」よりも冷たい
つまり
「暖かく感じたもの」を「冷たく感じたもの」よりも「温度は低い」と客観的事実は突きつけるのである。


同じ主観が同時にリアル感を持ってかなりの確証と共に観念したはずの「暖かい」「冷たい」に対してそれとは全く逆の結論が突きつけられる。


ただ、それが事実だからといって、その切実なすぐそれとわかる「自明」とも思えるリアル感をただ間違っているとすることが妥当なのか。


これが合理の持つ一つの理不尽な側面ではなかろうか。(もちろん合理がこれにより否定されるわけではない)


これは生きがいの話であり、多様性の話であり,損得に関する話であり、脅威の話であり,都会と地方の話であり、誇りの話であり,首相が良く口にする「心の問題」の話であり、郷土愛の話であり、民族・伝統の話であり,アイデンティティの話であり,平和の話であり、そして紛争の話でもあるように思う。


単純に「価値観」の話でもあるが,自と他の間に横たわる不可知論的な価値観の相違からアプローチするのではなく、自(主観)がその内部にもつ並存的「価値観」を、確認可能な並存的「感覚」から想定して考察できるのではないか、自身のうちに問い掛けることにより「感覚」を単に「曖昧」としては処理できない切実なリアリズムを直接的に実感できるのではないかと思い書いてみました。