「美しい日本」

「美しい」という「価値」を前面に出したスローガン。
こういうスローガンの気になるところは、この「美しい」を受け止める人それぞれがそれぞれ固有の「美しさ」の価値観で受け止めてしまうのではないかということ。
何らかの概念を抽象化して分かりやすく伝えるというのではなく、その発信元(官房長官)と受信先(国民)の夫々が持つ概念そのものにはつながりが無いにも拘わらず,媒介として用意されたラベルを共有し、ただそれだけで繋がってしまい、違う概念を同じ物として夢想してあたかも共有しているような錯覚に陥ってしまうようなことが起こりそう。


スローガンというのはそういうものかもしれないが、価値観を共有することは難しくとも、そのすり合わせは充分しておきたいと思わせられる。


官房長官が示した「構想」をhttp://www3.s-abe.or.jp/にあったpdfファイルをダウンロードしてチラッと見てみたのだけれど構想が「てんこもり」されている。
そこには、私が気になる社会問題も当然網羅してあって「〜に取り組む」「待ったなし」といった、現首相がよく口にしたようなフレーズが並んでいる。
これができればまあそれほど悪くは無い。
でも実際にはこの半分は丁重にネグレクトされるように思う。


世間が社会の問題として認識している点を並べ、それに「〜に取り組む」とするだけでは何も言っていないのと変らない。
その問題の「どこ」を問題として認識し、それに対し「どのように」取り組むかはもちろんだけど、羅列してある構想には「コチラを立てればコチラが立たず」という問題が並列に並べられている。
これらはどのあたりに比重をおき,どのようなバランスで,どのような妥協点を模索するのかというような指針が無ければそれも何かを語っているようには見えない。


例えば「多様な生き方と規律」は多くの部分に対立点がある。
「良い人、物、金」の「良い」を推し進めれば多様は生きずらい。
伝統とオープンな社会とにも多くの対立点がある。
地方の活性化と合理性の整合性を付けるのも一筋縄では行かない。
教育に民間活力を導入することで「今」利益が目に見える価値が社会を下支えしている価値を淘汰して価値を画一化していく傾向も出ている。
これらは何時も対立するわけではないけれども,多元的な実社会では実務的にはどこにウェイトを置くかによってその性格、特色,差異が現れるのであってそれが無ければ評価もできない。


どうしても八方美人的な印象を持ってしまう。
個別のレイヤーでのみ、その是非が語られ,そのレイヤー同士の関係性を表に出さないところは現首相の手法を確かに継いでいる。






私は自民党員ではないので総裁選はどこか手の届かないところで行われる「お祭り」「デキレース」にしか見えず、どうしても関心を持続するのが難しいのだけれど、それもあまり良い姿勢とは思えない。

ということで、昨日アマゾンで「美しい国へ」を発注したので、じっくりそのあたりを探ってみたい。