グレーな部分

政教分離といっても欧米の現在のシステム、思想の根底には(それを意識しているかどうかは別にして)宗教が関わっているのではなかろうか。
政治から宗教をできる限り遠ざけようとの試みは概念としては合理的ではあるとは思うけれども、それを明確に実現できている実例はあるのだろうか?
法、それに先立つ倫理、慣習。
はたしてこれらが宗教(超越性)と明確に独立して成り立ちうるのであろうか?


人の思考の極限に有る「人が合理的に思考し得ない部分」としての「根本」にどのような整合性を付けるかは(もし整合性をつけなければ成らないならば)宗教のような超越性に頼るしかないのではないだろうか?


もし、それが何らかの特定される宗教でなければ(つまり無宗教を自認するならば)それは「個」独自の宗教のようなもので、同時に現存する共同体の倫理・慣習さらには「法」「合理性」といったものからも離れていく事になりはしないだろうか?(そのような立場が可能かどうか、そこまで成長する過程で何の宗教性の影響を受けない事が可能なのかについては疑問だけれど・・・)


確証なんてものはないけれども、これは私が思うところでの「原理的」な話。


現実にはいくつもの宗教が並立し,その各宗教の内部ですら多くの枝分かれした分派があるのが現実であって、その事実が人を原理的にはしておかない、つまりどこかで「曖昧」、言い換えると「思考停止」が要請されるのではなかろうか?
(仮に世界が一つの宗教に統一されたとしても、現実を見ているとその内部ではどうしても分派を形成していくように思えるし・・・)


政教分離も、この「あるところでの思考停止」があって初めて可能なのではなかろうか?
その意味では「合理的」に分離できるのもこの「思考停止」によって始めて可能になり,そしてそれが原理的な目から見れば「グレー」に映るということなのではなかろうか?


概念ではない現実世界には「グレー」の領域が有る。
「思考停止」を解除すれば共存ができず,「思考停止」を認めれば「合理性」が成り立たない。
解除せず、認めない、という「グレー」の領域、そのようなものが「人の生存の前提」にはあるのではなかろうか?
そしてそれが「有用」である事を実生活の上では人は知っているのではなかろうか?
実生活を離れた現実味の伴わない対象に対した時、「概念(原理)」に支配されやすく、概念ゆえにそれを忘れてしまう(感知できなくなる)のではなかろうか?


中東の紛争、昭和天皇の私的口述メモのニュースを見ながらそんな事を考える。