もう一つ思い出した

直接は関係無いが国語つながりでもう一つ。
中学1年生のとき,国語でロゼッタストーンの発見エピソードを題材にした授業があった。
ロゼッタストーンヒエログリフギリシャ文字で書かれていたので、その発見によりエジプトのヒエログリフが初めて解読されたといったような内容だったと思う。
それで、その文章を読んでいてどうしても知りたい事があったので質問しようと手を挙げたのは良いのだけれども、その質問をどうにも言葉にできない。
あせればあせるほど言葉にして伝えられなかった。


それは簡単に言えば
ギリシャ文字ヒエログリフの語順(文法)は一緒なのか? もしそうでなければ語順も分からないのになんで解読なんてできるの?
なんて国語とは全く関係無い単に興味だけのような疑問だったのだけど...それは同じ時期に英語の文法に悪戦苦闘していたからこそ出てきた疑念だった。
それを上手く表現できず悔しい思いをしたという思い出だ。


「こんな感じの事」として「英語と日本語の関係のイメージ」は頭に有るのに、言葉として成立していない。
今にして思えば「そういうことを言いたかった」と確かに言えるのだが、その時は「語順」とか「文法」とかといった対象としての「それ」を言い表すシンボルを使った言葉を形づくることができなかった。
言葉になっていないのだから論理的であるはずもなく、言葉として形になっていないから「ある」ともいえないのだけれど確かに疑問が直感され,対象を表わす語彙を手に入れた後ならそれを言葉として表現できるのだから荒唐無稽とも言えない。


この言葉以前の言葉にならないイメージ、感じとはなんなんだろう。
この形式を整えていない曖昧模糊としたものは一体どこから沸いて出てくるのだろう。
ソシュールでも学べば分かる事なのだろうか?


よくよく考えてみると私の場合、頭の中で「言葉として考えている」と意識している時は、ただ言葉が空回りしているだけのことが多い。
集中しているときは(後から思えばだが...)言葉としてその形は意識されていないように思う。


これは今でも同じだ。


「何か」を目にしたり読んだりして,「何か」を感じ、その「何か」のまま別の「何か」と繋がり、そこから良くわからない「何か」が漠然と発生し、それを後から人に話したり文にしたりする為に「それは何なんだろう」と改めて言葉として再構成しているような感じだ。


たぶん、だから今でも思考した事を文章にするのに時間が掛かるのだろう。
(もちろんごくごく日常的なことではそんな事はないのだけど...)


自分自身を「感覚的」だとカテゴライズする理由もこんなところに有る。


この間のニュースのように「今の小中学生は論理的思考が苦手」なんて聞かされると、ついつい「これって俺のこと?」なんて思ってしまう。
論理的な人の思考経路は一体どうなっているのだろう。
一度で良いから彼らにのり移って直に体験してみたい。