ちょっと因果

人の世界の因果のようなものにどの程度の信頼度を置くかにはかなりバラツキがあると思う。
因果応報のようなものも、そのような感覚があるか無いか、有ったとしてもどのようなものをイメージしているかにも違いがあると思う。




人の「意思」を強く信ずるならば、いついかなる場面においても「結果は予想されるべきものではない」としてもそれほどおかしな事にはならないだろうから「因果」はそれほど意味をなさないように思う。・・・(1)


そこに宗教(キリスト教)的なものが関与しても、それが「予定」されている物として回収されるならば「因果」を問う事にはほとんど意味が無いのかもしれない。
「悪」は「意思」により駆逐することになり、そこでの具体的「悪」の認定が結果的に間違っていてもそれは、予定されている事になるのかもしれない。・・・(2)

(人の世界の)因果をある程度信頼していても、その因果は「私ごとき」が観念・予期できる物ではなく、そのような中でいかに生きるか、あるいは「そうならぬ」為の内的「教え」(先人の)だけが淡々と示される事も有るだろう。・・・(3)


因果応報とそれに相当する「善悪」「正誤」が共同体においてかなり明確に限定されていれば、「悪」「誤」に対する「報い」を期待するバイアスを持つかもしれない。
場合によってはその期待のバイアスによって、実質的な「ねばならぬもの」としての「報い」が(人為的に)かもし出されるかもしれない。・・・(4)
外部から見れば人為的に見えても、その内部ではそこにかもし出される「報い」は人為的なものではなく自然の摂理と見なされるのではないかとおもう。






これはもちろん私の感覚的・恣意的な荒い分類なのだけれど、「因果」に関して大雑把にはそんな風に「私の世界」では見ているような気がする。


ちなみに私の因果感?は(3)に分類されるのだろうけれどもそこでの割り切れなさから、心情的に(4)に心地よさを感じたりもするが、そこへの警戒心も強い。
それでは(1)や(2)に無関係かと言えば、「意思」や「自由」を考えるときにはこれらに影響を受ける。


かなりの分裂症である。
分裂症では有るけれども基本的に(3)で、習慣的に(4)を、経験を通じて(1)(2)を併せ持っていてその軽重と曖昧さでそれを受け入れているような気がする。




イラク人質事件のときなどは(4)のあまりの強さに仰天し、(3)を基準にしながらも(1)(2)の部分が(4)に拒否反応を示し、それは本来(1)(2)的な「自己責任」を(4)で語られる事に反発を感じたからだと思う。


山口母子事件がらみでは再び(4)の強さに警戒心が働いた。


新興宗教やカルトにも、異常な(4)系の強さに怖さを感じる。


日本はあまりに(4)に左右されすぎるために(1)(2)的な「個々の意思」が不可欠な「普通の国」(欧米式)には適さないのではなかろうかとも思ったりもする。


韓国でも(4)は日本以上に強そうだ。


韓流ドラマ、特に「チャングムの誓い」等を見て面白いと思ったのは(4)の要素に心地よさを誘われた部分はあったようにも思う。
(4)の部分が強そうに感じる所に日本と韓国(他のアジアはわからないが傾向は有るかも)の感性の近さを感じる事もある。(情緒的な部分)




逆に(3)を基調にする私から見ると極端な(1)(2)によるアメリカのイラクに対する強引さは傲慢に見え、同時に悪因をそこに見てしまう。


今回起こっている「パレスチナの紛争」は極端な一部の(1)(2)同士の争いが多くを巻き込んでいるように見え、(3)である私から見るとそこに愚かさを感じてしまうのだと思う。


「因果」というのも単なる一面でしかないのだけれど、最近日本国内で起こる事件,事故のニュースを見ていると「応報」への期待度の大きさに圧倒されそうになる事が多く、そのような問題意識で「因果」について感じた事を大雑把ではあるが試しに書いてみた。