人の物質化



経済の原理が需要と供給で成り立っているならば、戦争は「恐怖心」に対して「安心(もどき)」を供給する経済活動であろう。
そこで消費されるのは物と人。
人を物質化してしまえば戦争は単なる消費である。


もし、軍事力が「安心」をもたらすならば軍事力は維持されなければならない。
(経済的に)存続するためには製品は消費されねばならない。
消費されるには需要が無ければならない。
市場も開拓しなければならない。
購買意欲も掻き立て無ければならない。
そうでなければ、優位な軍事的技術水準は維持できない。
人は「安心(モドキ)」を得るために、労力をつぎ込み,創出した価値をつぎ込みその(人と物の)消費活動に参画する。


人を物として分析し、人の曖昧さを物のように明確に断定し、人の真の顔を見ることなく「情報」としてしか受け取れない。


人の物質化。


ためらいは曖昧さ、情は不合理、個は全体の構成要素、脅威は「ある」
いずれも物質を見る感性である。


人が単なる(物質とは違った)消費財ではないとする理由が消えていく。


消費財であるのは「私」なのに、消費財になるのは顔を持たずにラベル化された「他人」。
「私」は情を訴える癖に,不合理な情を訴えるのはカテゴライズされた「他人」。
「私」が間違いを犯す事には無頓着なくせに、間違いを犯すのは差別化された「他人」。


それは(私の世界の)限界でしかないのに、世界はそれだけで成り立っていると嘯いている。


物質化されるのが「私」である可能性は考慮の外。


人が物質化されれば、経済活動に人と物との区別はない。