シンドラー社製のエレベータ事故に思う



結果は悲劇である。
恐らく、私もこれまでにこの「悲劇の可能性」を潜り抜けてきていたのだろうと思う。
何の不安も感じないまま、その機械が正常に機能するものとしてあたりまえのようにそこを通り抜け、たまたま私はその被害に遭わずに高校野球に青春をかけていた一人の少年にその被害が訪れてしまった。
この先エレベーターに一瞬躊躇する事はあっても、私はやはり様々な文明の利器に内在する「悲劇の可能性」をこれまでと同じ様に通り抜けていこうとするだろう。
いつかはこの「悲劇の可能性」に腕をつかまれてしまうかもしれないが...


シンドラー社製のエレベーターが特に問題なのかどうかは専門家ではない私には良くわからない。
悲劇を生んだのだから事故を起こした「その」シンドラー社製のエレベーターに問題があったことはよく分かる。
そうではなくて「特別問題」だったかどうかがよく分からない。
「コレだけ過去に不具合が有った」という報道は目にするのだが、それが異常なのかどうかが分からない。
エレベーターというものが他社製のものも含めて「一般的に」どの程度の不具合を「常に」抱えているのか、一日にどれくらいの数のトラブルが世界で起きているのかなどといった事は報道される事がないので「コレだけ過去に不具合があった」ということがどれだけ意味を持つのかを判断する事ができない。


もし、特別問題であった事が結論付けられれば、これからもまた私は「悲劇の可能性」に向け果敢に躊躇することなくそこを何気ない顔をして通り抜けようとするだろう。


その意味で社会的な信頼を維持する為にシンドラー社製のエレベーターが特別問題である事は潜在的に望まれることになる(一定のバイアスが掛かる)のかもしれない。




私にとっての悲劇は、シンドラー社製のエレベーターの不具合発生率が他と比較してそれほど異常では無い事が分かってしまったりした時、その発生確率を持ったものが身の回りに溢れているなんていう統計データを目にしてしまったりした時なのかもしれない。


そうなれば私はきっと不安になるだろう。
でも、しばらくすれば、また次の別の「文明の利器」で事故が起きるまでそれらを平気な顔をして通り抜けるようになる。
なぜならば、それがそこにあり、それを利用しなければ社会的な生活が成り立たないという前提があまりにも巨大だから。


願わくば、この事故の責任を明確にしつつも、この事故とは関係のない文明の利器に携わる仕事をする人それぞれが「他山の石」としてこの事故を受け止める契機となって欲しい。