最近の出来事

シンドラー社のエレベーター事故
福井総裁の利殖疑惑


もちろん個別には全く違うレイヤーを抱えてはいるが、いずれも「道義」が問われているように思える。
一口に道義といってもその捉え方は様々だなと色々なブログを見て思った。




シンドラー社のエレベーター事故では憶測はあってもまだ原因はハッキリしていない。
責任の所在もその原因によっては管理会社に向けられる可能性もないわけでもない。
少しずつ分かってきてはいるが、それがわかる前からかなり強い糾弾がされていたと思う。
糾弾の始まった当初は「法」的には責任が確定したわけではないはずなので、それを根拠に糾弾されたわけではなく、(妥当かどうかは別として)「道義的」なものとして「対応」「説明不足」「態度」といったものが根拠となっているのだろうと思う。
シンドラー社側とすれば法的な裁定を前にして不利な「言質」を取られたくないという現実的な対応が、かえって「道義的」な資質を問われることになってしまったのだと思う。




福井総裁が村上ファンドに資金の運用を委託していた件についても「違法」であったという話は(少なくとも私は)まだ聴いていない。
むしろ、法的には違法性は問われることはなさそうだというのが今のところの流れに思える。
ただ、立証はできなくとも「可能性」を疑われる行為、立場上求められるあり方に関して「道義的」な責任を問われているようだ。


しかし「道義」というのはその共同体の中で一定の価値観やそれに基づく倫理観の共有があって初めてその「妥当性」を問える性質のもので明文化されているわけでも何でもない。
その意味では「法」がデジタル的(論理的)であるのに対して「道義」というのはアナログ的(情緒的)な印象がある。
曖昧で二元論的な線引きには適さない。
グローバル化の中にあって「一定の価値観やそれに基づく倫理観の共有」そのものが不透明で錯綜している現在は特に難しいか。
アメリカとは違い「法」「ルール」を下支えしている宗教も殆ど機能していない事もさらにそれを難しくしているような気がする。




例えばコレが米国ならば「法」や「ルール」がそのまま「倫理観」であるとしても、それを裏付ける歴史的・思想的・宗教的・慣習的な「背景」と整合性をつける事にそれほど困る事はないのかもしれないが、これが日本の話となると「そのまま」取り入れても「背景」が違うので「整合性」ではなく「妥協」になってしまいかねない。


常に割り切れなさが残る事で「法」「ルール」と「倫理観」との葛藤があり、その葛藤が「世間」という名を借りて無意識の倫理観に突き動かされた「正義」の異議申し立てをし始める。
「倫理観」が「ルール」「法」に不信をもたらし、「ルール」「法」が「倫理観」に不信をもたらすという悪循環を生んでいるような気がする。
もっと俗っぽく言うと
一方では「ルールや法を守っているんだ、何が悪い」と主張し、一方では「こんな理不尽なルールや法など守っていられるか」
といった状況の中で、そのいずれにも不信感を募らせ互いに傷つけ合いながらイライラしているように感じてしまう。


日本的でありながら欧米(特に米)の土俵でダンスを踊るのは思った以上に大きな矛盾を孕んでいるのではないかと、ピントはずれかもしれないけど「高学歴とはいえない」(孤流天路:「ブロガーの学歴」参照)私は愚考してしまうのです。(笑)