ジャッジメント

話題のサッカーワールドカップの時期ですが、昨日のオーストラリア戦について書けば「愚痴」しか出てこないと思うので野球の話題を少しばかり。


先日、巨人-ロッテ戦で李選手の本塁打の際、小関選手がサードベースを踏み忘れたというジャッジがあり、勝ち越しのツーランが幻と消え、結局巨人は一点差でその試合を落してしまった。
原監督は独自にビデオを入手してこのジャッジが誤審であるという事、そしてビデオ判定の導入などを主張しているという
原監督のことだから、非難の的になり名誉を傷つけられた大事な選手(小関選手)を守りたいという思いもあったに違いない。




米国のNFLなどでは時々ジャッジの為にビデオ確認が行われ試合が中断される事がある。
オリンピック競技でも各国の威信がかかるだけにビデオ判定を採用する種目もある。
かつては不可能であった事を今ではテクノロジーの進歩がそれを可能にしているのだから原監督の主張がピントはずれな主張だということはない。


以前の私だったなら迷いもせず「できるのになぜそうしない」と言っていたと思う。
より確実に白黒をハッキリさせる事ができ「公正さ」が増すのだから何を躊躇する?
なんて思ったに違いない。


しかし、最近では「概念」ではコストは発生しないが、それを実際に導入する事になれば様々なコストや負の効果も発生するのではないかと思うようになってしまった。
コストといっても金銭的な費用という事だけではなくシステム的な管理コストやゲーム以外に費やされる余計な労力という意味である。






野球に限らず、人がジャッジするスポーツにはこの「誤審」は付き物である。
「テクノロジーを駆使すれば正しい判定は可能である」という前提が無い時代であれば、ある程度の誤差は想定内と考える他無く、あまりにも明らかな誤審があったり、明らかにある審判に集中して起こるとか、明らかに「あるチーム」に偏って優位に起こるとかが無ければ誤差の範疇として許容するしかない。
そのばるつきの範囲で「愉しむ事ができる程度」には公正さが保たれていたのである。


そこでは誰が見ても「明らか」であるかそうでないか、判定にバラツキが在ってもそのバラツキが偶然として一様に作用しているかそうでないかが問題なのであって、それさえ犯されなければ許容されるべきものであった。


サッカーやボクシングのようにホーム・アンド・アウェイによる優位不利のように偏った物もあるが、それさえも全体としてその傾向が「お互い様」であることが保たれていれば許容されたりもする。


ある意味,スポーツが科学・威信ではなく単なる娯楽であるならば、この「人による誤差」も人間くさい「酒の肴」として人々に話題を提供してくれる娯楽の一部である。
案外スポーツファンは「何だあの判定は」とか「ありゃ絶対にストライクだ」とか何だかんだと薀蓄をたれることも楽しみの一つにしているようなところがある。(と思う)
「世紀の大誤審」とか「世紀の大チョンボ」などといった形容詞も「場の許容」と「当事者の耐性」があれば、それによって作り出される「話題」は娯楽にとっては重要な要素の一つともいえる。




より厳密であれば相対的には公正さが増すことに間違いはないとは思うが、娯楽としてのゲームで厳密さの為に「中断」「堅苦しさ」等に支払われるコスト(つまり管理)がはたして娯楽に似つかわしいのか、また、ビデオを採用しても映る角度映らない角度による「より緻密な不公正」は問題にならないのか?なんて事も考えてしまう。


ばらつきがあっても人の調整力があれば一定の公正さは保たれる。
ばらつきの巾が狭まっても人の調整力がなければ公正さを欠くこともある。


といっても、科学的でない「調整力」と言った「曖昧さ」が信頼されないのは昨今の「常識」なので、それに抗することはなかなかできはしないが、だからといって厳密さが人にやさしい公正さを生み出すと考えるのもどうかとは思う。


厳密さ、デジタル化には何かと「人の管理」「人と人の断絶」の香りを嗅ぎ取ってしまう今日この頃です。