過去のメモ

本館「FAIRNESS」に「偏見」という記事を書いたが、しばらくその事に頭が独占されていて、ここの記事もしばらく書けなかった。
その記事にswansさんからコメントをいただいて、ふと過去に書いてHardDiskにねむっていたメモを思い出した。
探して引っ張り出してみたが、関心のありか(出発点)が違うので直接は関係無いが、こんな事を書いていた。

理念が無ければ偏見も顕在化しない。
顕在化しなければ問題そのものが抽出されないのであって、抽出されない事の平穏に安穏としていられる。
これは俗に言う「寝ている子を起こす」必要は無いとの感覚。

謂れ無き重圧や重荷を感じ(あるいは与え)つつも、それを何らかの概念で観念しなければ謂れ無き重圧や重荷が「偏見」であるとは気付かない。

ただ、そもそも重圧や重荷とすら感じていない者に、それは重圧や重荷だと観念「しなければならない」ということの正当性の起源は気になる。
その起源は現実の中にあるというよりは、理念、倫理などの概念の中にあるのだろう。