フルートが戻った。

東京駅のコインロッカーから持ち去られたとの事だったが川崎駅で見つかったとの事。
http://www.asahi.com/national/update/0427/TKY200604270196.html
どんな経緯でそこに放置したかは犯人に聞いて見なければ判らないが、なんとなくホッとする。


それを川崎のロッカーに放置した持ち去り犯の心情にホッとするとかとかそういうことではなく、持つべき人が持つ事で価値のあるものがその人の手から奪われることで、「ただ価値が喪失する」事の不合理が避けられた事になんかホッとする。


犯罪のニュースなどを見ていて
たかがそれッぽちの金や物の為に、なぜこれほどの価値が失われわれなければならないんだという事がよくある。
人の命等もその典型だ。


被害者やその周りのものにとってはその貴重なものの喪失を考えれば、加害者がそれによって手に入れた「価値」程度なら幾らでもくれてやるという心境になるような状況。(被害に遭うこと等は予期できないことだからそれはいつも結果論でしかないのだが)
持つ人が持つことでしか「価値」を有さない物は命に限らず幾らでもある。


あるいは、純粋に金銭的価値であったとしても、ある価値を盗む代わりにそれに比して膨大な損害を与えて盗み去っていく。
つまり1の結果を得るために10のコストをかけるというような状況。
「価値」の総和がただ減少するだけ。


このような「割の合わなさ」「愚かさ」は犯罪のニュースを見るたびに感じる。


逆にいえば、被害者にとっては損失ではあってもそれほどのダメージと感じないその損失が犯人にとってとてつもない価値として生きるならばまだ救われる。


もちろん法治国家において財産の所有が保証されている中で、この前提を共有している者としてこのように考える事は正当ではない事は重々承知はしているが、「まだしも」という思いのホッとである。


多くの犯罪は割に合わないものだと思う。
そんなニュースが毎日流される続けるから、ついこのようなニュースに出会っただけでホッとしてしまうのかもしれない。