あれから1年

私は日本人だから「因果応報」という概念に親近感を感じている。
特に仏教に帰依しているわけでもなく、意識しているわけでもなく、かといって仏教という宗教を研究するわけでもないのだが育った環境(習慣)がそれを用意して、経験がその思いをサポートしているのだと思う。


因があれば果がある。
この非常にシンプルな世界観、世界がそのようになっているという感覚。
むしろ科学(合理性)との親和性すら感じる。
こんなふうに置き換えて考えようとするあたりが私が宗教人にはなれないところ。
いや、合理教信者ではあるかもしれない。
それはさて置き...


因果応報を「罪があれば罰がある」と見る事もできるかもしれないけれども、それは人が期待する罪であったり、罰であったりとしてしまうとその違和感はぬぐえない。


人は共同体を維持しようとして「因果応報」をその社会規範にあわせて罪を定め、罰を規定する。
「報」を予期させることで悪い「因果」を生み出さないように。
だから、社会の規範に合わない「因果」があれば必ず「報」がもたらされる事を期待する。
社会規範に対して善良であればあるほどその思いは強いのだと思う。
その信頼が揺らげばこの社会規範を前提とした「因果応報」は崩れてしまう。
でも、これは人の規定した因果応報




たとえ「罪」に問われずとも、「因」はそこにあり「果」は訪れる。


「報」を期待するあまり、それを為し遂げるために人にとって都合の良く「罰」として与えるならば、それもまた「因」であり、それに相応しい「果」が当然のように訪れる。
でも相応しい「果」が人に都合の良いものであるかないかには関係ない。


たとえ「人の規定した因果応報」の信頼が崩れ「社会」が乱れたとしても、それは様々な小さな何らかの「因」の積み重ねによってもたらされた「果」でしかない。


それはちょうど、物理の世界で物に力を与えれば、「人にとって都合が良いか悪いか」には一切係わりなく物が運動し始めるように。


電車は世界のあり方(物理法則)にそっていれば、人を乗せて走らせることもできるし、スピードも出せる。
しかし、「効率」「収益」「スピード」といったものがどんなに人にとって都合良かろうが、それを求める事が避けがたく感じようが、そんな事とは一切のかかわりの無いところで、ただ一点「世界のあり方」を無視すれば「世界のあり方」に従って事故を起こす。
直接的には事故に遭われた方の「因」には見えないかもしれない。
事故に遭わなかった私を含めたその他には「果」が訪れなかったように見えるかもしれない。
しかし、「因」を積み上げてきたのは全ての我々であって、「果」は事故に遭われた方がそうであったように誰とは知れず、いつとは知れず、別の形で訪れる、あるいはすでに訪れているのではなかろうか?


いつ、どこで、どのように、誰にといったことが私にとって不可知で有るという事は私にとって悩ましく、理不尽に感じる事ではあっても、それが「因果応報」をこれっぽっちも否定する理由にはならない。
むしろ、少なくともその不可知部分を除いたマクロな部分では充分再現性が確認できるのではなかろうか。


あの事故からもう1年が経つ。
その日に、この一年間に起こった様々な出来事(事件・事故)を思い浮べながらそんな事を考えた。