手段の目的化

何かを変えるには、力の背景が必要となるという現実ある。
人を助けようと思えば、それなりの資金力や資金調達力が必要となるという現実ある。
それが無い「今」だけを切り取ればこれらは圧倒的存在感で迫ってくる。


金さえあれば〜ができる。
力さえあれば〜ができる。


これらに限らず「〜を成し遂げた暁には」と思う事は個人でもあると思う。
つまりその条件さえ手に入れればと思い、それを求める事を仮設定する事。
ここでは、その「過程」はあまり問題視されない。


でも実際には、その過程を問題視しない事で積み上げた澱が、その条件を満たした後、本来の目的を疎外してしまったりする。
また、条件を満たす前に挫折すれば、「澱」だけがそこに残る。
実にこれが多い。
これも政界(だけではないが)を取り巻く何処にでも有るもう一つの現実。
様々なとして観念される「体質」と呼ばれる物もその一つだと思う。
一般人にとってはこの「過程」で振りまかれた「澱の堆積の被害」もまた一般人であるが故に現実的である。

民主党の新党首 小沢さんもその「現実」を見つめ「政権」奪取に心血を注ぐ。
彼にとって「過程」はどのような位置付けになっているのだろう。