整合性を維持しようとする慣性

国にしても、社会にしても、個人にしても、時間の経過の中で同一性(整合性)を維持しようとする得体の知れない力が作用していて、何かが変わってほしいと思うときなどはそれをもどかしいと感じる。


誰もが「違う」と思っていることでさえも、その得体の競れない力にねじ伏せられてしまったりする。
「なぜ!!」と思いながら苛立ちを抱える。


それなのに、ある対象が同一性(整合性)を維持していなかったら、私はきっとその対象を「支離滅裂」だとするに違いない。


国も社会も個人も常に変化するものではあるけれども、連続した、何らかの同一性(整合性)を保ったまま変わっていくことを無意識に期待している。
人の世界の中にも物質の世界同様に「もし〜ならば〜であろう」が成り立つことを期待している。
(つまり、整合性を維持しようとして変わらない事にもどかしさを感じるとともに、整合性を保たない「支離滅裂」を憎んでいる。)


それ(同一性を維持しようとすること)は、(少なくともあるレイヤーにおいて)なんらかの因果関係を見出し(作り出し)、論理的であろうとすることを意味するのだと思う。
きっとそれは、概念が成立するということであり、言葉にすることができるということなのだろう。


それを期待するのは、それこそが、予見を可能にして、不確かな未来に、僅かながらに安心をもたらしてくれるからなのだと思う。


「信頼」というのも、その同一性体験の積み重ねによって得られる「思考停止」であり「慣性」のようなものなのでもあるのかもしれない。


言う事とやることが違う。
さっき言っていたことと、今いっていることが違う


こんなことばかりが回りに溢れていたら何をよりどころとしたら良いか途方にくれてしまうだろう。


しかし、それでもな私の感性は、その慣性に対して「でも」と思い続けている事をやめない。


つくづく、「頭でっかち」で「情緒的」だなと思う。