内田節

内田樹先生の「格差社会って何だろう」を読んだ。
以前『「格差」と「差」と「違い」』というちょっと似たようなエントリーを書いたことがある。


私のそのエントリーでは予想される反論(交錯する他のレイヤー)を意識した布石をゴテゴテと付け足しているけれども、ばっさりそれらを捨象して論点を絞って、洗練させるとあのような切れ味の文章になるのだなぁーと感心しつつ、チャレンジャーだなと思いながら読んだ。


その分様々な反論も反発も呼び起こしているようだ。


おそらく先生はいつものように「それでいい」と思っているのではなかろうか。


実際には内田先生とて「現実的にはちょっとね」や「しょうがないだろ」を意識していないとは思えない。


それに「格差」(といわれるもの)を単に容認しているかのように読まれてもいるようだけれど、内田先生がもしそのつもりならば、「火に油を注ぐ」という表現を使って「格差といわれる事態」の拡大を憂慮する必要も無い。
それらを重々承知した上で、端的に言えば敢えて「現実的にはちょっとね」「しょうがないだろ」それ自体をまな板の上において挑発しているようにさえ思える。


「そりゃそうだけど」と「しょうがないだろ」のハザマに置かれるということは内田先生自身も言及されているように「当たり前」と思う現在まさに拠って立っている「前提」を再考させられるということである。


個々一人一人に誘起される「切実さ」は、そのまま「この今」を拘束する「前提」を受け入れる(受け入れざるを得ないと観念している)ところに端を発している。


「前提」もそれぞれが持つ観念や事実に対する認識で、けして「事実」そのものとは限らないが、社会も、他者もそれを共有している(だろう)と認識しているから、それを避けがたい事実と観念しているのだと思う。


しかし残念ながら「避けがたい事実」と観念していようがいまいが、そこにどのようなエクスキュースを見出そうが、現実という「前提」によって拘束された領域に「解」が見つかればいいのだけれど、それが見つからないから閉塞状態にあるのだとしたならば「前提」に踏み込んでいかざるを得ない。


今回の内田先生のエントリーは
「拝金主義イデオロギー」(=金さえあればとりあえずすべての問題は解決できるという観念)が実際に蔓延しているかどうか。
「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できるという契機が格差を固定し拡大させる」という理屈に蓋然性・再現性を見るか、それとも見ないか
を個々に判断すればそれで十分だろう。


蔓延していて蓋然性を感じるならば、どのような「しょうがない」があろうとも「格差の固定と拡大は起こる」だろうことは認めざるを得ない。
しょうがないといって見ないフリをしても無駄である。(とはいっても、その結果を受け入れることを強いられるるだけだが)


ただし、「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」など蔓延しておらず、「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できるという契機が格差を固定し拡大させる」なんてことはありえないと思えば先生の理屈は「間違っている」と思ってスルーすればいい。


もうひとつあった。
格差(といわれるもの)の固定・拡大もそれが誘引するであろう事態も問題ないと思えば何も考えることもない。