その1

年金問題に関しての国会答弁を見ていると首相や厚生労働大臣の心情が手に取るように伝わってくる。


「今しなければいけない事に四苦八苦しているのに、いま経緯を持ち出しても解決にはつながらないだろう。」
「まだ、実態も掴めないのに今後のことを明言することなどできるわけないだろう。」
「『重大な問題』であるのは言われなくても分かっている、否定できない事を知りながら錦の旗のように振り回すなよ」


イライラ感が痛いほど伝わってくる。
選挙を前にして、現政権に過去の経緯の責任を押し付けられないように直接的な言質を取られないように回避する姿がまたこの問題の本質を図らずも浮き立たせてもいる。


「個人」の心情としては分からないこともないが、残念ながら彼らは個人ではない。
一貫して面々と継続されてきた国の行政の長であり、大臣である。



私のような庶民の心情はまた別にある。
おそらく、多くの国民も過去に既成事実として積み上げられてしまった「杜撰さ」が「どうにもならない」程のものであることを直感的に感じていると思う。
だからこそ、なおさらのこと「行き場のない」怒りがこみ上げてくるのだと思う。
その行き場のない怒りを収めるために、どこかにその捌け口を探している。


いかに杜撰であっても「既成事実」は成ってしまえば、そこに生まれた「現実」は「無視」などできやしない。
どんなに「理不尽」であろうが「不合理」であろうが何らかの形でその杜撰さのツケを負わされなければならないのだ。
確かに目の前にある現実に対して無力であるこの怒りを「感情的」と呼ぶこともできるかもしれない。
でも、感情的な部分のない所に「問題」などあるのだろうか?
どんな「現実」があろうとも「価値」や「感情」がそこになければ「問題」として認識されようはずもないのではないか?
「価値」や「感情」がなければ認識されもしない問題を解決する必要もないし、「理不尽」も「不合理」も淡々と受け入れていればいい。
そうはいかないのが世俗的(自由、民主主義的)な現実の世界のあり方だ。