メディアの衰退

国境無き記者団の「世界報道自由ランキング」が出たようです。
http://www.rsf.org/article.php3?id_article=19388
日本はこのランキングがスタートした2002年以来下がりつづけている。
ロールモデルであるアメリカのそれと同期するように落ちているところを見ると、そうなんだろうなと奇妙に納得する。


問題はこのような傾向をどう捕らえているかということなのだと思う。
なぜなら、日本ではそのような傾向にそれほど危機感をもっていないようであるし、むしろ益々この傾向を支持する流れの中にあるように思えるからだ。


情報の「透明性」「オープン性」はそれぞれの個に判断の材料を与える。
民主主義はシステム的には個の判断の集約のように思えるが、その判断の材料が無ければ最適な判断はできない。
言い換えれば、判断や選択は材料に左右され、材料が無ければ選択肢にも上らない。
この材料の供給が保証されなければ「民主主義」や「自由」、それに伴う「自己責任」もその有益性は縮小する。


一方で、情報の「透明性」「オープン性」は「異」「違い」を直視することに他ならない。
個々の価値観は必然的に複雑(複合的)となり、シンプルな状態がそれにより現れるわけではない。
選択の巾が増え、悩みの種が増えるということでもある。
「異」「違い」に寛容でなければこれは保てない。
「そういう見かたもあればこういう見かたもある」という状態を保証することにもなる。
夫々の個が持つ「切実さの猶予」としての「耐性」も強く要請される。
それは他方で「切実さ」に対する「抑圧」として映る事もあろう。


ただ、「透明性」「オープン性」という価値観のうえ(地平・レイヤー)では物事はシンプルである。
「それ以外」の個々の価値観を包含する形をとることで「複合」に「シンプル」をもたらす事になる。
つまり、それを(他の価値観を包含する)ベースの価値観として意識の底辺に無意識に近い形で共有することによりそれを成り立たせる。
その価値観を信頼しコミットメントすることにおいてはじめて「個」が「屹然」とすることが可能になる。
原則であるといえばそうだが、同時に根本の部分ではそれもまたコミットメントであり、選択だといえると思う。


他の選択肢を採る事も可能な中で「そちらの方が良いのではないか」と思い、それを採る事によって実現する類のもので、「あるがまま」「自然状態」「起こりやすさ」によっては成されない。
それが本当は間違っているかもしれないという可能性を含みながら、それでも尚そのリスクを背負い選び取る(切り取った)物だと思う。


報道の自由」とはそのような物なのではなかろうか?


その概念をより積極的に取り入れようとする度合いを示す一つの指標における日本のランキングが落ちているということだ。
このランキングの下位に位置する国家(北朝鮮(168)、中国(163)、イラン(162)、ロシア(147))がそうであるようにこの概念を積極的に取り入れようとはしない方向に向かいつつある。
「透明性」「オープン性」といった価値観を犠牲にしてもそれより大事な別の価値観が有ると言うこれらの国々のようにである。
そのような選択可能性はあるし、現にこれらの国々がそれらを選択しているのだが、日本も徐々にそちらに歩み寄っていることを示す指標なのだと思う。
日本は(是非はともかく)それを選択し始めたということか。
国民がどう思っているかはともかく日本はその方向に向かっている事への(比較的)客観的な指標なのだろう。
私も、その通りだと感じている。
同じようなことが「人権」という価値観に対しても起こっているように思う。
そして、私はそれがとても嫌なことだと思っている。