「プロボク」なんてどう?

先日ボクシングの試合を見た。
確かに後味が悪かった。
客寄せパンダにされてしまったボクサー一家を見るのも辛く、目を背けたくなる。
あの試合の後でも,自らを演じつづけなければいけない姿が映像に映ると、なおさらその思いは強くなる。


でも、あの試合でも見方は色々あるという。
スポーツと見るか、作られた興業と見るか?
「体を張って、決められた筋書きを精一杯演じる。」
確かにそのようなレイヤーで見れば「価値」はあるのだろう。
(「手段はどうあれ勝負は勝つことに意義がある」というレイヤーもあるかもしれない...)


役者ならどうか?
全くおかしくは無い。


プロレスならどうか?
それほどおかしくは無い。


サッカーならどうか?
イタリアではおかしくないのかもしれない。
でも、一応それが「問題」にはなるようなのでやはりおかしいのだろう。


どんな「スポーツ」だって、「このレイヤー」で見れば理窟の上では「不公正」など問題にもなるまい。


ベースボールだって明らかなアウトを審判がセーフにすることで試合が拮抗しておもしろくなるのならそうしても良いということになろう。
審判がセーフといえばセーフ、アウトといえばアウトなのだから文句は言えまい。
ホームチームのファンが喜ぶなら、ホームチームが勝つためにあからさまにそのようにしてもいいはず。
アレだってそれでビジネスとして成り立っている以上一種の興業だから。


セーフ・アウトはチームの懐(ふところ)事情で決まっていく。
選手は一生懸命それを演じていれば良い。
審判の判定はひいきのチームによって党派的に決まっていく。
それがおもしろくないなどと誰が証明できよう。
スポーツの公正さが持つ「感動」を持ち出しても論理的にそれが「正しい」などと証明できようか?
「私は公正さよりもひいきのチームが勝つための筋書きを一生懸命演じる姿に感動を感じる」と言い張るものに「それは間違っている」ということはできても、それを論破することは難しい。


これはスポーツに限らなくても良い。
料理なんかもそうだろうな。
次第に「本物の味」なども思い過ごしにされてしまうことだろう。


これを見て思出だしたのは
首相の「人生色々」発言。


「何でもあり」が「多様」とされてしまう。
「価値」は「価値」でも持続性とも、文化性とも、もちろん伝統などとは縁がなさそうだ。
残るものもあり、新しいものもあり,その蓄積から多様が生まれると思っていたが最近の風向きはそのようなものではないようだ。


スポーツとしてのレスリングがレスリングとして残り、それとは別に興業性の強いレスリングが「プロレス」として新しく生まれたように、スポーツとしてのボクシングはそのまま残し、新しい興業性の強いボクシングを「プロボク」等として生み出せば良いのに。


公正なスポーツとしてのボクシングの価値に感動するものもまだいるのに、なにも無理に同じその名を名乗ってその価値をぶち壊す必要も無かろうにと思う。