身近なことからアチラ側への飛躍(副題:脳内妄想)

「バッシング」(糾弾)もまた「法を守っているのに何が悪い」の集合の中の一つの要素か?

法を破れば「バッシング」は「犯罪」だが、そのような「犯罪」を「バッシング」とはあまり表現しない。

「バッシング」は形としては「強制」ではなく圧力(合法的な理不尽)による「促し」。
何らかの対象に行為を要求しつつも対象が要求された行為に及んだ時は「意思による選択」の体裁が取られる。

「法を守っているのに何が悪い」として行われる行為がもたらす(と観念された)「合法的な理不尽」に対して「バッシング」により作り出される「合法的な理不尽」というカウンターが当てられる。

場外乱闘?

「目には目 を、歯には歯を!!」が「法」に触れない「理不尽には理不尽を!!」に変質した「手打ち」

「法」によって満足されない「倫理」を満足させるべく人為的に演出される(天の定めであるはずの)「因果応報」「自業自得」

これら「曖昧な理不尽」を避けるべく論理によって構築されてきた「合理性」

「合理性」に頼るほどには「多様性」に晒されていない(と観念している)特殊事情。

他方で「合理性」も「能力を超えた複雑化」と「世界の断絶・無意味化」に直面。
哲学は雲の上から私のいる地上には降りてこない。(上れない?)
「教え」を根拠付ける体系を守る為に「同じ教え」を認められない宗教(派閥)同士はいがみ合う。

動物から人へ、そしてこの先、動物に回帰するのか、machine化を先鋭化するのか、それとも...

いずれでもあって欲しくないという業。

悩まし、悩まし

人の叡智はいずこへ