我々とか日本人とか

「我々」とカテゴライズされる存在が本当に有るかといえばないのかもしれないし、「日本人」とカテゴライズされる存在が本当に有るのかといえばないのかもしれない。
「私」や「貴方」だって大して変わりはしない。
青い空とか真っ赤な太陽とか言っても実際には様々な青があり、様々な赤がある。
このように切り取ると、そこに必ず間違える可能性を生むのだけれど、かといってそれがなければ何も語る事ができない。
さまざまな「意味」も厳密にそれを求める事は蜃気楼を追うようなものかもしれないが、「意味」のない世界を望んでいるわけでもない。