認識が世界に出会う時

難民には本来住むべきところに住めない事情がある。


出稼ぎ移民も本来住むべきところを離れざるを得ない事情がある。


このような事情を解消する為に、それができる場所へと移り住む。


事情を解消できるところに、人は集まり、物は集まり、混ざり合う。


この「事情」を発生させるところと、解消できるところ。


なぜ一方ではその「事情」が「発生」し、一方では「解消」できるのか。


これらは互いに関わりなく、独立に、それぞれの責任で、そのようになっていったのだろうか?


これらの「事情」はいかにして作り出されてきたのか?


偶然か?


それとも運か?


理由を問わなければ、それは「偶然」や「運」でありつづけるのだろう。


不都合がなければそれでいい。


でも、これらにより生み出される「結果」「現象」に違和感・不安感・危機感を感じ始めたならば、人は理由を問わずにはいられなくなるのではなかろうか?




[付け足し]
もし、それぞれの神が正しく生きていれば、それぞれに、ただ「そうなっている」と示され、違和感・不安感・危機感を理由を問うことなく解消してくれるのかもしれないが...今の「それぞれの神」は逆にこれらを解消するよりも助長する事に利用されている...ように...見える。