「陪審員制度」と「空気を読む」

一時「空気を読む」という事についていろいろなブログで触れていた。
それで先日エントリーで陪審員制度という言葉を書いた時、なぜかこの「陪審員制度」と「空気を読む」とを組み合わせると何が生まれるのだろうなんて事が頭を掠めた。


その時はそれだけだったのだけれど、数日前にブックマークした
http://www.asahi.com/national/update/0412/TKY200604110422.html
という記事が興味深かったので昨日ここで小柴先生の講義のビデオを見た時にこのことを再び思い出した。
正確には小柴先生の話を聴いて思い出したのではなく、講義が終って質疑応答で誰も質問しなかったシチュエーションを見て「ありがちだよな」→「これってもしや空気?」→「空気っていえば」ってな思考の流れで思い出した。(一体私の頭の中のシナプスの結合はどうなっているのだろうと心配にもなるのだけど...)


陪審員制度には裁判のスピード化、司法への参加による関心度向上とかいろいろな目的があるとは思うけれど多様な社会で曖昧になりつつある「社会正義」をいかに反映させるかというのも大きな目的の一つだと思う。
時として司法では国民の意識と乖離した判決が出される事がある。
その溝を少しでも埋めるという意味は大きいと思う。


もう一方の「空気を読む」には、それを特徴付けるレイヤーの一つに「同調圧力」がある。(と思う)
多様な意見がそのまま表明されるかわりに、各々が「皆はこの場ではどのように推測し振舞うだろう」と言う事を微妙に観察・感知しながら(さらにそれを)推測し、皆と同じになるように自らを仕向けるという誠に複雑な経路を辿る。
そして、この推測が必ずしも「皆が思っていること」と同じとは限らず、場合によっては「誰も思っていないこと」が何かのきっかけで「皆が思っていること」と推測・結論付けされてしまう事もありうるというのが「空気を読む」の複雑なところ。


多様な意見を反映させるべく取り入れられるのが陪審員制度の目的の一つだという前提がそれほど外れていなければこの
「誰も思っていないこと」が何かのきっかけで「皆が思っていること」と推測され、そのように同調圧力が掛かる事。
はかなり致命的ではあるまいか...と考えてしまったのです。


それぞれの前提が必ずしも妥当とは限らないので、「考えてしまった」だけなんですがメモということでご勘弁を。


おしまい。