山口の親子殺害事件

http://www.asahi.com/national/update/0418/TKY200604180285.html
この事件からも判決からも、できれば本当は目を背けたい。
個別にこの事件を述べる事も一般性でまとめてしまうのもなぜか憚れる。
でも多くのことを考えさせられるこの事件を無視もできない。
だから、この事件で頭に浮かんだものを列挙するだけに留める。



被害者は苦痛を訴える事はもうできないし、恨みを晴らす事もできない。


被害者は一人ではない。
大切なものを奪われ,貶められ,踏みにじられた被害者の周辺。
それはもちろん彼ら自身の死の苦痛ではないがそれにも勝る生の苦痛。


仮に死刑が宣告されても懺悔の姿を見せる事も無く、被告が淡々と嘯きながら死刑台に着いたとしたら被告原告のその後はどのようなものになってしまうのだろう。
被告に死を望むのは死を前にしてみせるであろう「悔い」であったとしたら。
残虐者が死して尚、苦痛を残す理不尽。


被告の姿を通して感じる事は死が苦痛としての意味を持たなくなりつつあるのではないかということ。
死が恐ろしいものでなくなりつつある事。
未知への恐れを失いつつあること。


人が人の尊厳を踏みにじり死に至らしめる行為そのものは、何らかの抑制力が無ければあっけないほど簡単であるという事実。
「その気」の者から身を守る事ができる確実な方法など無く,あるのはただただ心的な抑止力でしかあり得ないという事。


懺悔・悔恨の思いとその偽装。
その判別の不可知性。
懺悔・悔恨の無意味化もまた非寛容で暗い社会(別の理不尽の生成)を想像させる。


自分を悪党と嘯きながらも、外の世界の責任に転化し正当化せずにはいられない被告の心象。(被告の手紙より)


厳罰による犯行の凶悪化の可能性(絶対回避の心理)
システムに頼った抑止のいたちごっこ


司法の理不尽と平行して増えつづける行政(警察)の(冤罪に代表される)理不尽や物理的不完全性


事件の個別性と一般性


法,ルールの隙間は無くならない。
無理に埋めようとすると別の理不尽を生むことも。


当事者の事件に対する絶対的視点と他者の事件に対する相対的視点(社会性)は常に同時にあったほうが良いのではないかという事。


陪審員制度が期待するものの一つはルール(デジタル)の隙間(アナログ)を埋める事。


無期懲役と死刑の間のあり方。

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