調和・和【追記】

感動を分析したら、分析されてしまった時点でそれが感動で無くなると言う事がある。
おまえが感動したのはこれこれこういう理由で感動したんだよなどと解明されてしまえば、それが理路整然としていればしているほど、それまで確かにあった「感動」が「錯覚」に置き換えられ「あたりまえ」に置き換えられたりして原型をとどめる事無く壊されてしまう。(ちょうど破壊検査のように。)
これが


岩を分析して、石の種類を知り、石を分析して、石の成分を知り、石の成分を分析して、石の元素を知る


のように物質ならば石の元素まで分析しても、その後も岩は岩であることに変わりは無いのだがここではそうはいかない。


これはむしろ絵画で表現したり、ポエムで謳ったり、音楽で奏でたり、より近い「〜のようなもの」で伝える方が「ありのまま」に近い物を伝えられるかもしれないとさえ思う。

このようなことは「なぜ人を殺してはいけないのか」とか「善とは」とか「愛情」とかに対した時にも感じる事だ。
分析し、解明し、語った時点で分析前のサンプルは破壊される。
必要の無いものが破壊されるだけならいいのだが、大事な物を失ったような喪失感が付きまとい、感覚には依然としてその存在感が残るから厄介なのである。
つまり無になるというよりも、懐疑という残骸だけが残っていくような感じだ。

私は[和]も[調和]も嫌いではないが、
他には方法が無く、その必要上語ることができるもので語るしかない「法」
にそれを位置付けてしまうと、それを位置付けた時点で別の物に変質してしまう事になってしまうのではないかと思ってしまう。

とりあえず思いつくままに追加。