「お人好し」と「やせ我慢」

信頼ベースの社会は信頼を拠り所にすれば生きやすい、不信ベースの社会では疑わなければ生きられない。

といっても完全に信頼を裏切らない社会も無ければ、確実に信頼を裏切る社会もない。
いずれも裏切られる事があるのは同じだが、言葉だけで言えば、その発生の不確かさの処理の仕方に違いがあるに過ぎないように思う。
同じように5%裏切られる可能性がある社会でも5%「しか」裏切られないと観念しているか、5%「も」と観念するかでその次のステージが違ってくる。
今現在だけを切り取れば同じなのに慣性が違う。
その慣性に抵抗する事ができるとしたら、「お人好し」や「やせ我慢」等しか無いのかもしれない。
でもなぜかこれは「かっこ悪い」ようである。