争い

イスラエルヨルダンレバノン(注1)に空爆海上封鎖を行い緊張状態が続いているという。
小泉首相の訪問はどうしても「場違い」のように映ってしまう。
ついでに言えばこれまで同様にブッシュ大統領は「自衛」として容認する構えのようだ。


イスラエルがあり、パレスチナがあり、その難民があり、それを取り巻くイスラム諸国がある。
そしてその構図の中にアメリカが関係し、その歴史にヨーロッパが関わっている。


イスラエルで紛争が勃発する度に「争いの縮図」をそこに感じる。
(互いに)「自衛」と言えば確かにそうなのだろうと思う。
「攻撃」しているとは言わないし、心底そうは思っていない。


恐らく互いに相手の「共存の意思」を信じていない。
それをあたかも証拠付けるように現実にテロや侵攻が起こる。
抵抗がテロに直結され、逆にイランのアフマディネジャード大統領のようにイスラエルの存在すら否定する発言などもそれに火をつける。


共に疑うことなく共存していた時期もあるのに、何故か今ではその時代を遥かに飛び越えて薄れ掛けていた遠い昔の歴史にまで遡ってその根が掘り起こされ妥協を許さぬ「対立の根拠」に据えられてしまっている。


そのような報復の応酬という現実の中で「共存を願わない」というのもウソ臭い。
共存以外には相手の抹殺しかないがそれが可能なほど単純ではない事もわかっている。
ただ、「相手が共存を願わない」のにコチラが「共存」を口にすれば付け込まれるだけだと互いに思っている。
どのような状態で「共存」するのが「正当」なのかに一致を見る事が無い。


「共存したいのに相手は共存したいとは思っていない。」という根拠の無い妄想に取り付かれた行為・言説が「現実」を作り出し、その現実が「妄想」を「事実」に置き換える。


「疑心」に終着先は無い。エンドレス。


でも、それを知らないわけではない。


知ってはいても,現実に後押しされ厳然な事実と化した「妄想」を既に「妄想」としては無視できない。


一部の原理主義者の行為によりそこにカテゴライズされる多くの人々が性質付けられる。
性質付けされたカテゴライズに向けた一部の強硬派の行為がもう一方のそこにカテゴライズされた多くの人々を性質付ける。
そんな事を繰り返していくうちに嫌でも「原理」に皆が巻き込まれていってしまう。




このような状態に陥れば多くが死に多くを破壊する。


そこには「そうなればこうなる」という「道理」だけが、淡々と無表情に殺戮と破壊の事態を生成しながら横たわり、「是非」は現実を翻弄するだけの役割しか果さない。
「是非」はそうならないためのごくごく限定された手段にすぎず、そうなってからはむしろ争いの促進剤としての働きしか果せそうに無い。




今のパレスチナ情勢から争いについて学ぶべき事は多いのではないかと思う。


(注1)間違いです。失礼しました。

人の物質化



経済の原理が需要と供給で成り立っているならば、戦争は「恐怖心」に対して「安心(もどき)」を供給する経済活動であろう。
そこで消費されるのは物と人。
人を物質化してしまえば戦争は単なる消費である。


もし、軍事力が「安心」をもたらすならば軍事力は維持されなければならない。
(経済的に)存続するためには製品は消費されねばならない。
消費されるには需要が無ければならない。
市場も開拓しなければならない。
購買意欲も掻き立て無ければならない。
そうでなければ、優位な軍事的技術水準は維持できない。
人は「安心(モドキ)」を得るために、労力をつぎ込み,創出した価値をつぎ込みその(人と物の)消費活動に参画する。


人を物として分析し、人の曖昧さを物のように明確に断定し、人の真の顔を見ることなく「情報」としてしか受け取れない。


人の物質化。


ためらいは曖昧さ、情は不合理、個は全体の構成要素、脅威は「ある」
いずれも物質を見る感性である。


人が単なる(物質とは違った)消費財ではないとする理由が消えていく。


消費財であるのは「私」なのに、消費財になるのは顔を持たずにラベル化された「他人」。
「私」は情を訴える癖に,不合理な情を訴えるのはカテゴライズされた「他人」。
「私」が間違いを犯す事には無頓着なくせに、間違いを犯すのは差別化された「他人」。


それは(私の世界の)限界でしかないのに、世界はそれだけで成り立っていると嘯いている。


物質化されるのが「私」である可能性は考慮の外。


人が物質化されれば、経済活動に人と物との区別はない。