認識が世界に出会う時

難民には本来住むべきところに住めない事情がある。


出稼ぎ移民も本来住むべきところを離れざるを得ない事情がある。


このような事情を解消する為に、それができる場所へと移り住む。


事情を解消できるところに、人は集まり、物は集まり、混ざり合う。


この「事情」を発生させるところと、解消できるところ。


なぜ一方ではその「事情」が「発生」し、一方では「解消」できるのか。


これらは互いに関わりなく、独立に、それぞれの責任で、そのようになっていったのだろうか?


これらの「事情」はいかにして作り出されてきたのか?


偶然か?


それとも運か?


理由を問わなければ、それは「偶然」や「運」でありつづけるのだろう。


不都合がなければそれでいい。


でも、これらにより生み出される「結果」「現象」に違和感・不安感・危機感を感じ始めたならば、人は理由を問わずにはいられなくなるのではなかろうか?




[付け足し]
もし、それぞれの神が正しく生きていれば、それぞれに、ただ「そうなっている」と示され、違和感・不安感・危機感を理由を問うことなく解消してくれるのかもしれないが...今の「それぞれの神」は逆にこれらを解消するよりも助長する事に利用されている...ように...見える。

駄目営業マンのそれ

顧客は大切だ。
いい条件を出し、値引きをすれば顧客は喜ぶ。
だからといって際限のない値引きをして会社に不利益を与える営業を優秀だとは言うまい。
良いように使われ、利用されて用がなくなればおしまいである。
顧客と会社の関係も悪くなっても良くなることはないだろう。


機嫌をとってばかりいて、(顧客にも会社にも)大事な事を隠して契約をとってくるような営業マンは、たとえそのときは成績が良くてもトラブルの元である。
トラブルが発覚すれば会社の信頼はがた落ち。(もちろん計画倒産でも考えていれば別だが)


顧客との信頼の為には時に相手の不利益になることも話さねばならないし、それを話しても壊れない関係こそが信頼ではなかろうか。(短い付き合いが前提ならばその必要もないかもしれないが)


かといって、信頼がないのに当方の都合だけを押し付ける営業が成績を残せるはずもない。



今の外交、駄目営業マンの「それ」を見るような気になる事が時々ある。