相互扶助社会と相互監視社会

似ているようでいて違うこの二つ。
違っているようでいて似ているこの二つ。
相互扶助社会は日本にかつてあり、風習、因習、儀式等により運営され、その非合理から避けられ消えつつある古い社会。
その結果生まれた「個の社会」においてそこで起き始めた「切実」な問題に対処すべく現れつつあるのが「相互監視社会」であり、ルールとシステムにより運営される合理的な新しい社会。
といった印象。
新しいとか古いとか言いながらも「相互干渉」である事には変りが無く、ただ「信頼」を基盤にしているか「不信」を基盤にしているかの違いでしかないようにも思う。
結果として起こりうる「人が感じる理不尽」にはどれだけの違いがあるのだろう。

法律ができるという事

法律ができるという事はその分、違反の種類は増える事は間違いない。
法律が刑法ならば犯罪の種類が増える事になるのも間違いあるまい。
法律が複雑になればその分、犯罪も複雑にはなるだろう。
ところで、これらを取り締まるCapacity、複雑さを的確に判断するAbilityは確保され得るのだろうか?

犯罪者の創造性

犯罪が起きる。
ルールができる。
一般人と犯罪者のどちらが「より」そのルールを避ける創造性を働かせる事になるのだろう。
もっと現実的に言えば、テロリストや犯罪組織と一般人のどちらがその事に、より関心を示し、より創造的にその網から逃れる努力をつぎ込むのだろう。
一般人が引起す間違いとしての犯罪とテロリストや犯罪組織が確信犯的に引起す犯罪とどちらがその網に掛かりやすいのだろう。
そして、どちらがより致命的なのだろう。
市場原理のように合理的に考えれば...

犯罪者にはならない予定だが

私は犯罪者にはならない予定だが、これだけ社会や法律が複雑になり、しかもその複雑さから逃れられないとなると法律家ではない私は気がつかぬうちに犯罪者になってしまう(されてしまう)事も覚悟せねばなるまいと思う。

治安の悪さ

夜中に若者が屯しているのを見て「治安が悪い」と感じたりはしていないだろうか?
人が他人に無関心である事を「治安が悪い」と感じたりはしてないだろうか?
その風貌を見て、振る舞いを見て他人が自分と同じでない事を「治安が悪い」と感じたりはしてないだろうか?
理解できないものに不安を感じ、それが「治安の悪さ」を印象付けているという事はないだろうか?
もともとそこには「犯罪性」が無いのに「違いに対する不安」を「治安の悪さ」に置き換えてしまってはいないだろうか?
その印象(不安・不信)が、むしろ犯罪を誘引するという事はないのだろうか?

不安や不信がもしそこにあるのなら、それを解決するのは法律ではないのではないかとふと思った。
単なる頭にフラッシュした思い付きだが...一応書いておこう。