「揺さぶられる」ということ

台風が好きだと言ったら台風の被害にあわれた方もいるのに不謹慎だといわれるだろう。
でも、本当のことを言うと痛いほどの圧倒的な豪雨も、台風で押し寄せる巨大な大波も、天を切り裂く雷もし、めったに降らない大雪も嫌いじゃない。
要するに自然が引き起こす「非日常」的な変化に心に揺さぶられる。


その一方で、そのような災害で亡くなったり傷つけられたりする人の人生、不運を自分の身に置き換えて想像すれば、その時に湧き上がる刹那さもまた本物である。
そして、もちろんその被害者が自分であったなら、好きとか嫌いとか揺さぶられるとか、そんなことを言っている暇などはありはしない。


それでは、人がこれら自然の脅威から安全であったなら良いのかとも考えるが、もし現象として自然の振舞いをただ観察することで心を揺さぶられることも無いだろうと思う。


恐らく自然が示す偶然以上に、人の心を揺さぶるような「人の意図」(必然)は無いだろうと思う。
あったとしても、「意図」を意図であると自覚できないところにしかそれは無いだろう。
(環境問題という概念もそのハザマに置かれて揺れているように思える。)


何かしらの「意図」を感じさせる優しさには揺さぶられない。
目的を意識したマニュアルのような「意図」には感銘を受けない。
既にテンプレ化された「意図」には心から影響されない。


様々な構造がテンプレかされ、現象が「意図」に置き換えられれば置き換えられるほど揺さぶられることも、感銘を受けることも、影響されることも無くなっていく。


一見、意図を持っているように見える人に影響を受けることがあるにしても、意図を持っていることに感銘を受けるのではなく、その意図にコミットメントするその迫力、情念、信念に圧倒されるのだと思う。


そして、そういうものはそれこそマニュアルによって意図して手に入れることなんて事はできない。

そして、そういうものを持ちたいと思う半面、ひどく恐ろしいことだなと思う。
それがミクロであるうちは良いが、マクロに拡張されるとろくなことにならない。


ミクロに必然を持ち込まず、マクロに偶然を持ち込まないということなのかとも抽象してみても、そんな都合のいい境界線は存在せず、そんな線引き自体が「意図」になるという矛盾に直面するだけ。


何なんでしょうね、この我侭ぶりは・・・


矛盾なのだけど、そんなハザマに私は生きていて、その矛盾に生かされているということは・・・つまりは偶然なのだろう・・・か?