生み出される選択肢

前回の続きのような物だが、ふと、思ってしまうのは
「なぜ、人を殺してはいけないのか」という問いを立てる以前には「敢えてそうする」という行為(選択)は存在するのだろうかという事。(つまり確信的行為が元から在るのだろうかということ)


問いを立てる事によって初めて「そうしない理由」が生み出され、と同時に、その理由が生み出された事によりそれが当てはまらない「あえてそうする理由」という可能性(選択肢)がその副産物として生まれるという事は無いのだろうか?


恐らく問いに対して「そうしない理由」はそれまでの世界の切り取り(概念)「資産」から搾り出される。
それまでに提出された信頼の置けそうな「概念」であるところの「命の大切さ」「人権」「幸福概念」等といった物だ。


その「理由」が言葉で表現されなければならないならば、もっと言えば論理的に表現されなければならないのであれば(前提の共有された)世界から切り取られたこれらの概念を駆使してなされる他なさそうである。
そうでなければ論理的正当性を持ちそうに無い。


ところが「概念」が「世界の切り取り」である以上「世界のあり方」に対しては常に不十分であり、それゆえ、その理由も「常に」不十分であると言う事にはなってしまうような気がする。
世界の捉え方が不十分であれば当然それにそぐわない反応(現実)というものにいつかは直面する。
切り取られた事(概念が持ち込まれる事)でそれまでは要求され無かった再現性が期待されるのだが、「不十分」であるが故に僅かながらに期待を裏切るその事実によって、そのアンチが「意識」「認識」されてしまう。
このアンチは「招かざる客」では在るが、現れてしまった以上無視することも都合よく忘れる事も出来ない。




人は「なぜ生きているのか」を問い掛ける以前に生きようとしている。
その中で「人を殺してもいい」が一般化し自分以外の何者かにそれが与えられる事は何かよからぬものを意味しそうだと漠然とは感じる事ができる。


恐らく人は当初「人を殺してもいい」はそこに感じられる漠然とした「恐れ」の実在感から真理が究明されれば否定されるに違いないと思っていたのではなかろうか?
形骸化した宗教や倫理に頼らずともその手法に論理や科学的手法を頼りに探ればきっと「人が生きる」再現性のある普遍的な道しるべが見つかるに違いないと思っていたのではなかろうか?
でもそこにはなかなか近づかない。
近づかないだけでなく、切り取りの不十分さゆえ、逆に近づこうとすればするほどそこから遠ざかる選択肢を次から次へと生み出してしまう。
「大切な命を守るために人を殺す」「人権を守るために人を殺す」「幸福のために人を殺す」等といった人を殺す可能性もこのようにして生み出された選択肢なのではなかろうか?
論理的思考の先に認識されたこれらは論理を信頼すればするほど人にまとわり着いて離れない。
世界のあり方に対する切り取りの不十分さにより可能性が生まれ、その僅かな現実の可能性の行使が、よりその可能性の信頼確率を上げていく。


しかしだからといって肝心の
「人を殺してもいい」が何かよからぬものを意味しそうだと言う漠然とした感じ
を意味が無いとしてぬぐう事が出来るわけでもない。


こんなような事が私に感覚や曖昧といった感性を(論理的でなくそこに危険性が予感されても)私自身の中で保留したくなる理由の一つなのかなぁ...なんてわけのわからないことをボケっと考えたりする。
断片のメモにしては長すぎるな、これじゃ続きそうに無いから気をつけようっと。