金の価値が持つ価値

何の脈略も無いのだけれども・・・


金は評価の難しい価値というものをもっともフェアに評価しているか?
それはあらゆる価値に対して有効なのか?


もし、「金」が交換可能な「媒体」「指標」としてのみ作用するならば価値の評価手段としてベターである可能性が無いとは言えない。


しかし私は「金」が「金を生む」性質を持つ限り、それをフェアとするのには無理があるのではないかと思う。
「金が金を生む」性質とは「金」そのものの「額面価値」だけでなく「あらゆるものに交換できる性質」によってそれとは別の「金」特有の「特殊価値」を持ってしまっているということ。
「持っていること」がすなわち(持っている額面以上の)「価値」である状態のこと。
フェアに評価する「指標」自体が「価値」である状態というのは、なにかしら裁判官が自分の判決を下すようなもののように感じられる。


「価値」としては「合格」でも、「指標」としては「不合格」に思える。


そのことがその他の価値達の「評価」にアンフェアを持ち込んではいないだろうか?


今では「金」は「潜在的価値」(評価以前の価値)を顕在化させ「価値化」する力(動員力)も持ってしまっている。
もっと直接的な言い方をすれば「金(の特殊価値)」そのものが他の「価値」を凌駕し、その「価値」の「価値化」も「評価算定」をも支配してしまっている。
「裁判官に自分の判決を下す権限が与えられてしまっているようなもの」というのはそのようなこと。


それが、特定の主体に(意図的に)「価値の原石」を無効化させることも、「巨大な価値」にさせることも、あるいは価値の横取りをすることをも可能にしているのが現実なのではなかろうか?


「金」の特殊価値が全ての価値に公平に働くべき市場原理そのものさえ操作してしまっているのでは?
むしろ、人々が良いと思う価値の正当な評価をも阻害してしまってはいないか?


そして、交換可能な「媒体」「指標」としての役割よりも、その「金が金を生む」性質のほうが「人を魅了」し、ますます巨大化してしまっているのではなかろうか?


「金とはそういうものだ」という現実描写に異議を挟むつもりは無いが、「金」が「価値」をフェアに評価するかどうかということに限れば、ちっともフェアなんかじゃないと思う。


金はフェアではないが「金を手に入れる機会」が全ての「人」にフェアに与えられる可能性は残しつつも、そのような現実も、そのようなシステムも実現してなどいない。
しかも、この可能性は、切実な欲望に率直であれば自然に生ずるというような原理的なものとも思えない。
切実な欲望から距離を置いた何らかの契機(持続可能性、共存等)が隠れていて、その契機によってはじめて可能性として表れるに過ぎないのではないかと思う。


金が本来の謙虚さ(笑)を取り戻し、指標としての分をわきまえるならば経済至上主義もまた違ったものに見えるかもしれないが・・・それもまた「理想」に過ぎる。