雑多メモ

絶対安全は無い
(だからと言って「絶対安全」は「より安全」を維持するのに有用なことには変わりない)
科学者や技術者ならだれでも知っている。
そうでない人も知っている。
でも、多くの人が、それが今、ここで、こんな形で起こるとは思わない。



万が一を想定できるか?
できるかもしれない。
100万が一は想定できるか?
かろうじてできるかもしれない。
一億分が一は想定できるか?


べき乗則のような世界で生きているということは、永遠にその問いからは逃れられないということ。


どこで線を引くか(何を「それ」として切り取り、それ以外を誤差、バラツキ、例外として捨象するか)
それが、科学者や技術者、そして理性に突き付けてくるものだ。



自動車も、仮に6シグマですべての部品が管理できたとしても、やはり不具合は起こる。
絶対不具合を起こさない自動車などない。
まして、運転者に運転が任されている以上想定外の使われ方は無数にあるので絶対に安全な自動車などない。
そして間違いなくその犠牲者は存在する。
でも、社会はその存在を許容する。(犠牲者がこれを許容するかは分からないが社会は許容する)


電車も同じだろう。
でも、自動車に比べより公共性、被害規模の違いから求められる「何か」によって線引きの位置は違う。(使われ方の制限が厳しい)
その違う線引きの位置によって社会はその存在を許容する。


飛行機なども「絶対安全」を口にすることで「より安全」が維持されているということはあっても、「絶対安全」が維持されているのではない。
より安全が維持されている事で社会はその存在を許容している。


原発も確率に関する限り、これに変わりは無い。
しかし、(社会にとって)その損害の規模はやはり違う。
(もちろん、自動車事故の犠牲者や原発事故の犠牲者にとっては悲劇であることに違いは無い)


一般論として「すべての物事にはリスクがある」(私はこれを真実だとは思っている)とすればいずれも同じ地平におかれるが、実際はリスクの評価によって違って来るのはもちろんのこと、その扱われ方もまるで違ってくる。


「リスクを恐れては何もできない」という個々レベルの実感は、一般化されたとたんにそれは薄められ、現実とかい離し始める。




想定外は起こる。
今回はたまたま「津波想定」が(社会にとって)想定外だったかもしれない。
でも、それを再度想定したから「想定外はおこる」を阻止できるかといえばそうではなく、「それにもかかわらず起きる」というところにBlackSwan的なできごと、べき乗則が示すところの本質があるように思う。(そして、「これがそうであった」と事後に判明するのもその特徴だ。)