自浄作用



事実はどうかわからないけれども、私は今の日本に閉塞感を感じる。
つまり、自らのシステムを修正するために自浄作用が働いてほしいときにそれが機能しない閉塞感といったらいいだろうか。


多くの誰もが「良くはない」と自覚しながらも、その「良くない」システムに関わりながら誰しもそこに生きている。
そのような状況に出くわす事が増えたような・・・。


当初から「良くない」と思いながらも、それは小さなことだからと目をつぶってきたことの結果であることもあれば、当初は「良い」とか「あたりまえ」に感じていた何かが時を経るにしたがっていつの間にやら「良くないこと」として認識されることもある。
それとは別に、当初から一貫して「良くない」と思いながらもただ「無力」であるがゆえに、生きるために「良くない」システムとの関わりを最小限にしながらも生きながらえてきた結果であることもある。


「良い」と思ったことで身近な誰かを傷つけたり、逆に「良い」と思ったことで多くの他人を傷つけたりしてたじろぎながらしているうちにいつの間にやら何が良いのかさえも判らなくなったりした結果であったりもする。


私も
どんなに「原子力発電」に不安を持とうともそこで作られた「電気」を甘んじて使用している。
どんなに「争い」を嫌おうとも「在日米軍」や「核の傘」の下で安穏と暮らしている。
どんなに「地球温暖化」を危惧しようともCO2を出し続けている。
どんなに「デフレ」や「賃金低下」に困っても「安いもの」を買おうとする。


上げればキリが無い。


でも
もし、原子力発電に替わる代替手段が生まれたなら、あるいはもし、今ほど電気を使わなくても「普通」でいられるなら。
もし、東アジアが緊張から解き放たれたら。
もし、CO2を出さなくとも幸福でいられるのなら。
もし、安いものを買わなくても生きていけるなら。


との思いもまた「矛盾」ではあっても「うそ」ではない。
むしろ、整合性はあっても「仕方が無い」に「うそ」はある。


ただ、そのような「環境」「条件」は「今」は存在しない。




「システム」の「良く無さ」から「無垢」であることは、そのシステムが大きければ大きいほど難しい。


おそらく「現実」に対して「責任」を負うということから見れば、どのようなシステムであろうと「良く無さ」をぐっと飲み込み、たとえ「良くない」「現実」の中でもそのシステムを支え「今」身近な「人を生かす」者のほうが「責任感」を感じさせるということもあるだろう。


「言うこと」と「やっていること」の「整合性」があるほうが美しい(正しい)。


しかし、それはシステムが比較的うまく回っているときは「より良く」なる「美しさ」ではあるかもしれないが、システムがうまく回らない(だれも良いとは思わない)時には「より悪く」なる「美しさ」として作用し、「疎外」はひたすら進行し続ける。


誰もが「泥」の中にいるときに、「きれいなものを願う人」はいても「きれいな人」はどこにもいない。


「泥」の中にいる「きれいなものを願う人」もすでに「泥にまみれ」ている、そして、どこにもいない「きれいな人」を探しつかれてとことん「泥まみれ」。
このときにもし「事実」によって検証するならば「汚れている」事は実証できても「きれいなものを願っているか」を実証することはおそらくできないだろう。


腐敗というのはそんな「望むものが実在しない」ことへの諦めから生まれる「泥まみれ」の「共有」なのではなかろうか?


「自浄作用」とは何なのだろうと考えたとき、(そのシステムの内部においては)それは「矛盾」とそこへの「許容」のことなのかもしれないと最近は思う。
「泥」に汚れてはいるのに「きれいなものを願う人」を「許容」する「矛盾」。
実際に実証できない「きれいなものを願う人」を判別するのは頭でっかちな私には簡単なことではないが・・・。


一方で、私自身には忘れたくはないこともある。
多くの人々によって良くないと観念された「汚れ」を、「きれい」なものとして一般化することはできない。
それは「必要悪」などといわれるものを「正しいこと」として一般化することに等しい。
「きれい」とか「汚い」は人の観念が作り上げたものでしかないとも思う一方で、もしそんなことがまかり通れば、きっとそこには「安心」も「安全」も「幸せ」も無いとも思う。


「矛盾」だなーと思う。


私は合理的であろうとはしても全てを明確に(言語化)できると思うほどには合理主義者にはなりきれない。
何でも(論理的な)言葉にすれば良いとも思わない。
そうすることで壊れていくものもあると思っている。


そして、このような(あたかも必要悪を是認するかのような)文章として書くべきことではないとも思う。
書いてしまった私はきっと頭でっかちであるがゆえに間違っている。
いや、間違っていなければいけない。と思う。

強制送還

フィリピン人のご一家の件は結局、家族を引き離すことになってしまったようだ。
これも村上春樹さんの言う「壁と卵」の一つなんだろうなと思う。
システム・概念・正論・一般化・抽象
そして国家や法律もその壁の一つだろう。
もともと「人」のための秩序であり、「人」のためのルールであり、「人」のための法であったはずのものであるが、抽象され一般化され概念となり正論化されシステムとして機能している国や法もまた、それがマクロなものであるというだけでミクロに不合理をもたらす。
これは、不法滞在者に寛大な法律ができたとしても、それが法律である以上、それがマクロであるというだけで不合理をこうむる何がしかのミクロな個人は出るだろう。


人が生み出すマクロなものは全てのミクロを救い上げるには常に不完全なものであり、法律もまた常に不完全であり、システムも不完全だ。
だからこそ、ご両親の不法滞在を長期に渡り許すことになり、ますます強制送還を難しくする不合理をも生み出すことにもなった。


そのように不完全なマクロによって不合理をこうむるミクロに、システムを離れた一人一人がどのように関わっていくかが問われているように思う。
なぜならば私もまた、いつでもマクロにより不合理をこうむる一個のミクロに過ぎないからだ。


おそらく、心情的には少なからずの日本人が特に娘さんの置かれた状況には同情するのではないだろうか。
彼らの日本滞在に反対する人であっても、そのような「同情」に鞭打って反対している人も多いことだろう。


彼女が日本にいることはできても実の両親と若くして引き離されるのだ。
そして、彼女のご両親には非があっても、彼女自身には何の非も無いのである。
彼女が家族の日本滞在を主張する仕方に同情を利用しているとの非難も目にしたが、彼女が彼女の思いをどのような手段を使って主張しようとそれは当たり前のこと。
強制送還を妥当だとする意見があるとはしても、彼女を個人的に非難する言葉などあろうはずもない。
少なくとも私たち日本人は個人的直接的な理由で彼らを排除するのではなく、人のために一般化されたシステムに反するから排除を正当化するである。
彼らの滞在に反対するにしても一般論として社会問題として関わるにとどまるのが節度と言うものではなかろうか?


家族というレイヤーはほぼ誰もが共有しているレイヤーであり「家族が引き離される」ということは誰にとってもつらいもので、そのレイヤーを共有するものにとってはそれは自明のこと。
他のレイヤー(この場合は法律)で別の結論に至り、そちらを重視しようとも、家族というレイヤーを共有する限りは
「家族が引き離される」という事実も、そのことにつらさを覚えることも変わらないはずであり「家族が引き離されること」そのものをそのレイヤーの中で正当化するものではない。
そして、それはそこでは間違いなく「非情」なことであり、それを亡き物にすることはできない。
強制送還を非とした者も、是とした者も、システムを共有するものは等しく皆その「非情さ」を抱えていかざるを得ない。


村上氏は常に「卵」に寄り添うという、文学を通して寄り添うという。
私は文学者ではないのでそのようなことはできない。が、少なくとも突き放したり、開き直ったり、割り切ったりはしたくない。

科学について少し

科学を考えようとすると、科学に対する一口にはいえないちょっと複雑な思いがある。


科学には夢があると思うし、科学には可能性があるとも思う。
知ることの喜び、思いがけない驚きもあればコントロールすることの快感もある。
その一方で何か急き立てられ、限定されている気にもなる。
知ることの苦さ、コントロールされることへの不快感。
一つ一つの長所が同時に一つ一つの短所でもある。
科学がもたらす希望が同時に絶望である。
科学の生み出す利便が同時に不便である。
科学はかように是にもなれば非にもなる。
いや是には必ず非を伴うといったほうが良く、選択的に是だけを抜き出すことが難しい。
観念的には科学そのものには是非は無いのかもしれないが、科学が人によって生み出されるものである以上それは技術となり、利用され、その具体的成果物が「是非」から独立していたためしは無く、それらを切り離して論じることも現実的とも思えない。


確かに科学には夢があると思う。
「人類」という枠(客観的)で見れば、今は実現していない「何か」を実現する可能性を未来に開いてくれる。
「私」という枠(主観的)で見れば、身の回りに起こることの「仕組み」をより良く知り、その仕組みを思い通りに「再現」できることやそれらを組み合わせて応用してこれまでには無い「何か」を生み出す感動や喜びや驚き。
「科学」と「技術」が生み出すその「何か」は、いつも人にとってはエキサイティングだ。


科学というものは常に先人が築き上げてきた土台の上に積み上げられるものであり、その積み上げられてきたものを「科学」と呼ぶこともできるし、今まさにその土台に積み上げようとする営みを「科学」と呼ぶこともできる。
抽象の仕方を変えれば、それとは関係なしにそこに一貫している「手法」を「科学」と言っても良いようにも思う。


「科学」といっても、どのレイヤーから科学を見るかでも見方が変わる。


「人類」という枠(客観的)から見ると、先人によって積み上げられた「科学」は、「既存」であり、新しいわけでもなく、無機的で、ただ遺跡のようにそこにあるだけで、「前提」として「現在」を規定するだけのものである。
「喜び」とか「意義」とか「感情」とか、それらを生み出した『人』の「熱意」「葛藤」のようなミクロなものはすでにそこにはないし、ある必要も無い。
実際に人を感じさせる生きた科学的な営みは既知と未知の境界線(既知の最先端)にしかない。


一方で(これも遺跡と同じように)そこにはその時代時代にそれらを積み上げてきた人々の息遣いやドラマがそこにあり、科学を学ぼうとする人(個人)はその過程で先人が味わってきた感動や喜びを後追い体験することができる。
つまり「私」という枠(主観的)では「私」にとっての「未知」が「既知」となることの喜びというものがあり、たとえそれが「人類という枠」では「既知」であり「当たり前」のことであったとしても、「私が知る」事の喜びというものはそれとは別にあり、これこそが「身近な」科学であり、「庶民の」科学なのではないかと思う。
最先端の科学というものも、このような「科学」の裾野を成す「身近」で「庶民的」な「科学」があってこそであり、最先端科学者もその中から生まれるのだと思う。


ただ、なんとなくだがこのような「知ることの喜び」「身近な科学」のようなものの価値やそこへの関心が薄れてきているのではないかと思うことはある。
あまりに「最先端の科学」が専門化し「身近な科学」と乖離しすぎたからなのか、「最先端の科学」を駆使した「成果物」が身の回りにあふれていて一々そこに関心を向けるわけにも行かなくなったのか、人々の立ち居地が客観に振れたことにより「相対化」されて関心を失ってしまったからなのかわからないがそのように感じる。


科学を生み出したものは切実な人の「知りたいという思い」や「知る事の喜び」といった「意味」であるにもかかわらず、客観的に科学を見れば科学そのものには「意味」なんてものはない。
そもそも「科学」に意味を持ち込むわけには行かない。
それ以前に、「最も客観的な状態」は全ての「意味」を排した状態によってしか保障されることはないだろう。


その「最も客観的な状態」を求める「科学」は、皮肉にもまったくもって主観的な喜びや達成感といった「感情」「熱意」を契機として発展し続けてきているのである。


「科学万能主義」というものがあるとすれば、全てを「科学的」(客観的)に見てしまったときであり、そして「科学」をも「科学的」(客観的)にしか見ることができなくなったなら、「科学」に関心を寄せる「意味」も、「科学」を生み出す「意味」も失われてしまうことだろう。
(実際の世界ではそのような極端なことは起こりえないと思うが、そのような観念に支配されることはあるかもしれない)


現在がそのような極端な状態にあるとは思わないけれども、若干そのような兆候(客観的であろうとするがゆえに様々なことに無関心になりつつある、関心に抑制的である)は・・・・感じなくも無い。
そして、そのような兆候に対する反動も感じなくも無い。
この二つが互いに今いる位置で微調整してバランスを取れればいいのだけど、天秤のできるだけ端に急いで向かわなければバランスが取れないかのように自ら自らのバランスを崩して両極化してバランスをとろうとしているような気もする。


おそらく、比較的主観的な立場から比較的客観的なものを見て警戒感を持ち、そのことによりさらに主観的な主張をすることになったり、逆に比較的客観的な立場から比較的主観的な物を見て警戒し、より客観的な主張をすることになったりするうちに互いに「虚像」を作り上げて両極化しているように見えるだけで、実態は誰しもその両方をバランスとともに持っていて互いが警戒し非難しあうほどの乖離はないようにもおもえるのだけれどどうなのだろう。(ごくまれには警戒する必要のあるものもあるかとは思うがその影響はごくごく僅かで、これもまた単に「虚像」の増幅に寄与しているだけにも見えるし)


このような不信の構図はいろいろな場面で見られけど、(私自身も含めて)微調整を可能にする遊び、余裕、曖昧さが「許せない」んだろうなぁ。本題とは関係ないけど。



偶然_過去と今

「偶然」というものは昔も今と変わらず人の前に立ちはだかっていたのだと思う。
具体的な「偶然が見出される対象」はその時代により違うのだと思うけれど、そこに常に偶然を見出していたことは変わらないように思える。
今は規則的に現れていると認識さえている現象も当時の人にとっては単に偶然であり、「そういうもの」でしかなかっただろうと思う。
その現象が起きる仕組みも、それを説明する概念も知らなければ「そういうもの」という以外に語る言葉も無い。
それはその当時の人にとっては「限界」であり、と同時にそれ以上語る必要の無い「世界の全て」であったことだろう。
判っていると認識している事柄の全てが世界であり、それ以外のものは「無い」もしくは考えるまでも無く当たり前な「そういうもの」でしかなかった。
それはそれで「十分」なことだったろう。


すでにわかっているもの以外の出来事はすべて「偶然」であり、もし、当時の人々が「語ることのできない」それら「偶然」を「そういうもの」として気にも留めず、知ろうとさえしなければそれは今も「同じ偶然」であり続けていたことだろうが、人はいつの時代もその時代なりに「偶然」を「偶然」のままにはしておかなかった。


それが進歩の歴史だと思う。


其々の時代に立ちはだかる具体的な「偶然」は、より予測可能な何かに置きかえれているという点では、其々の時代に固有の仮の「偶然」であり、やがては解明され覆される限定的な「偶然」ともいえそうだが、それとは別に一貫して付きまとい続ける「偶然」というものがある様に思う。
解明しても解明しても次から次へと立ち現れるより根本的で普遍的な「偶然」


これは多分、人の知性がフレームワーク(抽象による切り取り)であるがゆえに、「今は」語ることのできないそのフレームワークの枠外に起因する現象は全て「偶然」という姿で立ち現れて来るのではないかとも思ったりする。

偶然_科学

頭でっかちである私が決定論的な思考傾向にあったとき、不確定性原理という概念を知り、何かすくわれたような気がした。
科学自身が未来を一意に決定できないことを証明したからだ。
つまり、私自身の明日はなんら決定しておらず、私の個性は偶然により裏付けられ、その個性が決定したことはたとえそれが客観的には偶然に見えようとも、決定していないという事実が私にとってはそれを「意思」でると思い続ける事を可能にする様に思えたからだ。


今でも「偶然」のような概念が私にとってより大きな意味を持っていることは変わらないし、むしろ「偶然」をこれまで以上に普遍的・根本的なものとして考えるようになっている。


ただ、今は不確定性原理により証明された「偶然」は仮のもののように感じている。
とりあえず「偶然」が科学の中で存在できることは(私にとっては)好ましいことなのだけれども、(エキサイティングでロマンティックで、そして一方で残念なことに)やはり科学は解明のための新たな手段を手に入れ「不確定性原理で証明された偶然」を覆すだろうと思う。
覆した後に「偶然」がなくなるかというとそういうことではなく、「一意に決定」することは依然としてできないが「より一意に近い予測」を可能にするだろうと思う。
それは「粒子」によらず「波動」によらず、今はまだ人が持ちえぬ新たなパラダイムにより成し遂げられるのではないかと思う。
そのパラダイムが出現したときはけして「粒子」や「波動」が「間違え」であったということではなく、より広く世界を説明できる新たなパラダイムの「部分」でしかないという形でなされるのではないかと思う。
なぜそう考えるかといえば、まさにこれまでの科学がそうであったように思うし、そういうものが「科学」だという観念を持っているからなんだけど。

偶然_主観と客観

「偶然」というのは、予見できない,決定していないことにおいて主観に「意思」を開放してくれ、その「意思」によって行われた行為を人為的であるとすることはできると思える。
もし「必然」(決定論的)ならば、「意思」の居所は無い。
ことによると、この「意思」は偶然選択されたものの「別名」でしかないのかもしれないが、人(主観)にはそれを区別することはできない。
ただ、人(主観)が何らかの決定を下したという「実感」のみが、それを単なる「偶然」ではなく「意思」によってなされたことだということを主張させるに過ぎない。
そこには人にとっての意味こそあれ、なんら客観的裏づけは無い。


一方、偶然であるということは(主観が確信する意思を介在しない客観がありえるとして)客観においては同じその行為もまた「そのまま」偶然であり、だから無為的とすることができる。
偶然ならば結果を(一意に)決定する因果はもとより存在せず、なんらの「意図」も「意思」も存在しないならば、単なる「偶然」がもたらした結果に対して「行為」をどこかに帰属させること自体も「無意味」である。


「人という存在」自体が偶然の産物で、偶然ゆえに其々が多様であることはあっても、その多様な個性は単に「偶然」であることでしかなく、この其々個々の「事情」を考慮することも「無意味」である。
(もちろん、この偶然はミクロが一意に決定されないという偶然なので、個々が集まった集まり(マクロ)の振る舞いをそのばらつきを相殺した上で確率として、その「因果」を考慮することは「無意味」とはいえないかもしれない。
とはいってもそれを考慮したからといって何かを「意思」でどうこうできるのでないならば、人にとっては「無意味」といえば無意味だけど)

偶然_可能性

人は現在を体系付けているけど、やはりそれは多くの「偶然」の結果なのだと思う。
人が宇宙から何か変化や違いを知覚する仕方(採用された手段)にも「偶然」はあるだろうし
何かを属性分けする仕方にも「偶然」はあるだろうし
何かを定量化する仕方にも「偶然」はあるだろうし
定量化された何かに法則を見出す仕方にも「偶然」はあるだろうし。


今から過去を振り返れば、ひょっとするとそれは必然に見えるかもしれないが、「今」はその偶然の結果としてあらゆる可能性の中からたまたま現れているだけなのかもしれない。
その、奇跡的な偶然の産物により世界を認識している私には、それ以外の可能世界を表現する手段を持たない。
しかし、「具体的に」どういうものかを語ることはできなくても、メタ的に「まったく別の今」の「可能性の想像」はありうる。